チャットでなんか文章の書きかたについて聞かれましたので、ついつい迂闊に語ります。 俺は自分のテキストに価値があるとはいまだに思ってないので、そんなもんについて語る資格はないと思ってたのですが、聞かれたからには書いてみるのです。だから今回のテキストはほぼ私信です。 チャットでは「着眼点」の話が中心に出ていたので、そのへんについて書いていこうと思います。とりあえずIKEAについて書いた文章、ここに晒しておきます。 あ、そーだ。今回は、バカおそろしく長いうえに、興味のある人以外にはあんま関係ないっぽいんで、あらかじめゆっときますー。以下、引用。つーか自分のテキストだけど。 まずコストパフォーマンスが異常。デザインまで含めて総合的な商品力に対して、価格が安すぎる。それはもう、本当に安「すぎる」というほかないくらい。ま た、デザインのみならず作りに関しても相当にしっかりしている。実用性、デザイン、そして作り。総合力から考えれば、どこをどうとっても安いという以外に 言葉がない。これじゃ話題になるのも当然だ。特に机だの棚だのの大物に関しては、もう絶句するしかないほどのコストパフォーマンス。大量販売、組み立て式 による輸送コストの削減、そして自社デザイナーの囲い込みによって、実質家具でいちばん金かかりそうなデザイン部分のコストを可能な限りゼロに近づける。 そしてかかったコストに対して儲けだけを乗せてそのまま販売。これをやられちゃ、一般の家具屋なんぞ太刀打ちできるはずがありません。 てゆうわけで、商品力はまさに異常。 店の立地も、港北インターから見えるし、最初から基本車で来る客しか相手にしてないので、最強に近い立地でしょう。 そして、販売方法や店舗作りなどの面。 まず会社のイメージとして「北欧」をかなり強く前面に打ち出しているのがわかる。北欧ってのは不思議な地域で、世界的に知名度の高いさまざまな要素がある のに、一種のエキゾチシズムがある。また福祉国家、国民幸福度高ランキングなどの特徴もある。また、家具にちょっとでも興味がある人なら「北欧っぽい感 じ」というのは憧れる部分がある。あれだけ最強の商品力を誇っていながら「北欧」というイメージを使うにいいだけ使ってるというイメージ力強化もできて る。抜かりがないというかなんというか。 そして売場構成。 これはいちばん感心した点だ。順路通りに歩かなければどうにもならない構造は、人によっては腹が立つと思う。しかし家具屋の基本はいまも昔も「一式そろえ る」高客単価の客を相手にすることだと思う。そして「北欧スタイル」を前面に押し出ししている以上、まずは生活を「IKEA風」にしてもらうことが、より 強力なブランドイメージの形成につながる。というかIKEA信者を作ろうってことだ。 そして売場そのものが、実に劇的空間として構成されている。基本的にはトイレタリー、ベッドルームなどジャンルに分けて空間を仕切り、そのあいだを通路で つなぐ、という構造になっている。とはいえ各コーナーは完全に独立した「箱」ではない。しかし客の視線は常に誘導されている印象。 たとえばベッドルーム関係のコーナーに入ったとする。すると視野がぱっと開ける。開けた視野のなかでショールームが展開される。 たかがコンビニでも日夜「客の視線」を意識して売場を作っているからよくわかる。この計算のされかたはただごとじゃない。漫然と置かれているものなんてなにひとつない。 そして順路の最後には在庫置き場があるのだが、これがまさに異常。吹き抜けなんて言葉が生ぬるいくらいの大空間に天井まで在庫が積んである。この空間の異 様さはちょっと言葉では説明がしにくい。国際競技レベルの体育館の天井まで棚があり、そこにこれでもかと組み立て式家具が詰め込まれている。単純に「見た ことのない空間」「商品の豊富さを客に叩き込むための空間」として、これほど強力な演出はない。スペース効率を考えたら確かにこういう在庫の置きかたはア リなのかもしれないが、そこを客の順路に組み込むということは、明確な意思がある。 最後に買い物のシステム。 メモに売場の商品番号をメモって、それを最後にセルフで在庫置き場からピックアップするか、あるいは専用の商品渡し場所で受け取るか、という感じ。やや客 に負担をかけるセルフ販売だ。確かにコスト削減に役立ってることはまちがいない。商品の陳列の手間を省けることは、相当な人件費節減に役立つ。在庫の置き 場所が決まっているのであれば、陳列の専門家を育成することもない。もっとも、このシステムの最大の肝は、細かい商品の陳列ではなくて、売場の演出のプロ フェッショナルを育てて、そういう人たちが「売場の演出」に専念できることにあると思う。在庫管理の必要がないから、演出だけに注力できる。 あとIKEAでは、客にセルフを強要することを「お客様に低価格で商品を提供するためのご協力」と位置づけている。これ、確かにそのとおりなんだろうけど、同時に客を共犯、ないし信者として取り込む有効な手段でもあると思う。 IKEAの強さの中核にあるのが、ほとんど無敵といえるほどの商品力にあることはまちがいない。しかし本当の強さの秘密は「なにひとつとしてムダにしな い」精神だと思う。コスト削減のための施策ですら「客の取り込み」に利用する。浮いたコストは客により買い物をさせるためにきちんと投資しているはずだ。 これは、IKEA側が言うような「すべてよい商品をお客様に届けるため」なんかじゃない。狡猾なくらいに徹底した「買わせるシステム」こそが IKEAという家具屋の最大の秘密だ。 ああそうだ。 あと、最後に生活雑貨のコーナーが待ってるんだけど、ここで、マグカップ29円とか皿1枚100円とかどうでもいいような安売りをしている。 冷静に考えてみれば、いまの時代、特にIKEAくんだりまで出かけていく客にとってマグカップが29円であることの価値はあまりない。これは「IKEAは よいものを安く売りますよ」という向こうのメッセージ。そして博物館気分でIKEAを見学に来た客に対して「これがIKEAのブランドイメージですよ」と いうことをアピールするための装置であると思う。 総合的に思ったこと。 よく「これからの時代、小売はいろんな意味でみずからの進む方向性を明示できるようでないと生き残れない」というようなことが言われる。まあ、そのとーり だと思う。もっとも、人はいつの時代だってふつうに生活して生きてるわけで「これからの時代」が特になにかいままでの時代と極端に違うというわけではない だろうから、全面的に認めるわけじゃない。 だけど、IKEAを見てると、みんながそう思うのもしかたないような気がする。しかしそれは時代が云々じゃない。もともとどこかの方向に特化したものは強いのだ。それに気づいたメーカーなり小売なりが「強くなった」からそう見えるに過ぎない。 日本のメーカーなり小売なりに明確に欠落していたのは「コーディネイト」という概念だと思う。もともとコーディネイトというのは個人がさまざまな場所から 「自分の好きなもの」を取り寄せて、自分の生活スタイルを確立するような行動のことを言うのだと思う。その過程で払わなければならない努力もまた楽しみの うち、というわけだ。生活というのは機能で、その見地に立てばデザインというのは「余剰」だ。つまり自己満足だ。そのことを知っている通人だけがコーディ ネイトを楽しめばよい。だからデザイン性の強いものは「高くてもいい」ということになっていたし、そこに金を払う人間もいた。自己満足であれば、高くても 問題じゃない。 人間にはもともとコーディネイトの欲求はあると思う。だからそれを提示してやれば飛び付く人間は多数いる。そして飛び付いた程度の人間に自分の意思にもと づくスタイルなんてない。だから与えられたスタイルで満足する。それはおそらくデザインの大衆化と卑俗化なんだろうけど、商売としては正しい姿だ。個人的 趣味としてはあんまり好きじゃないが。 ところで、ニトリの元ネタってIKEAだったんだね。あれ見てわかった。ニトリのあれは、日本的な妥協した姿だったわけだ。 IKEAが店舗を設置するためには巨大な敷地が必要。また、相当に広範囲の商圏が必要だろう。そういう意味では小回りの効く多店舗展開はできない。しかし それでも都道府県に一つくらいの範囲では展開できると推測する。するとニトリなんかは大打撃を食らうだろうなあと思う。しかしIKEAは、潜在的な需要を なんか巨大なブルドーザーかなんかで掘り進んでいるような印象があるから、むしろ既存のホームセンターや家具屋はそれなりに存続しつづけるのかな、という 気もする。 むしろあれ、真っ向からぶつかるのって無印じゃないかって気がする。実際は取り扱い品目に差があるからなんとも言えないけど。ただ、無印はもともと大型家 具はあんまり得意じゃない。出自がそもそもそういうもの扱う必要がない形態だったから、あたりまえっていえばあたりまえだけど。 いま伸びている日用品のチェーンってどこも共通のにおいがする。ユニクロ(まあこれはピークは過ぎてるけど)、無印、ニトリ、しまむら、ダイソーなど。どれもが「うちはこれ」という明確なコンセプトを持っている。 なんつーか。 そこでIKEAが登場ですよ、という雰囲気。 まちがいなく日本での展開は、成功すると思う。 まあこう考えると、ウォルマートが他国でコケる理由がよくわかるわけだけど。ウォルマートそのものが、世界中で通用するプライベートブランドを持ってるわ けじゃないからねえ……。扱ってるものが生活にべったべたなもの(スーパーだからあたりまえ)だから、特にプライベートブランドは作れない。世界展開って いうスケールメリットも別に活かせない。つか活かせるシステムを作ってないからコケるんじゃないだろうか。とにかく日本では単品大量展開とエブリディロー プライスは体質的にあわんです。わかりそうなもんなんだけどなあ……。 以上、引用おしまいー。 自分で貼っておいてなんなんだけど、特に目新しい要素ってないような気がする……。それなりにまとまってるとは思うけど、一般論に近いような。 前提としては、俺が小売に関して素人でない、というのは当然ある。あとは実際に「売る側」だというのが大きい。文中では「たかがコンビニ」と書いてあるんだけど、小規模だからこそ、客をうまく誘導できたかどうか、結果がよくわかるってのもある。家具のように、最初から目的が決まっていて、また単価が高くてそうおいそれと衝動買いできない商品と違って、コンビニの商品は、いってみれば「買っても買わなくても別にどうでもいい」ものが多い。新商品っつったって、リニューアルっつたって、このあいだのとなにが変わったんだよ、というまちがい探しみたいな状態だ。その状態で「売り込む」ということをしなければならない。だとしたら、そのわずかな差異を検出して、拡大解釈でもなんでもいいから客に「こういう理由でこの商品をおすすめするんですよ」と示すしかない。 てなわけで、上の文章ができる理由のいちばんめ。 まず、つねづね「客はどういう理由で商品を欲しがるのか」と思考する癖ができている、ということ。世のあらゆる商品に対して、消費者の立場ではなく「それを売る側には必ず思惑がある」ということを片時たりとも忘れないこと。たまたま偶然売れてしまった商品などない(実際はあるんだが、少なくとも「売れる」ことに関しては理由がある)。これが「成功した業態」となると、必ずやそこには「成功した理由」があり、それは偶然では片付けられない。偶然だと、いっときのブームにはなりえても継続性がないから。 いちばんめって書いたけど、それしかないんじゃね? 俺は小売の人で、しかも商品は本部のお仕着せのコンビニの人だから、実はマーケティング的な概念はあんまり必要がない。特に住宅街で固定客相手に商売をやってると、マーケティング的な考えかたで外側から固めるよりも、個々の客の欲しいものをじっくりと睨んでいたほうが、結果としては正解に近いことが往々にしてある。 ただ、あれかなあ。コンビニの仕事を長くやってると、仮説と検証という方法は、いやでも身に付く。上のテキストでも、ほぼ無意識に「IKEAという業態ができたのには、仮説がある」というのを前提にしてるっぽい。少なくともだれかの明確な意思がないとああいう業態ってできようがないと思うし。 いちおー「仮説と検証」という概念について説明しておく。あたりまえっていえばあたりまえのことなんだけど。 たとえば、最近やけに白飯が売れてるとする。 それには理由がある、と考える。 単純にいえば、白飯を買う客が増えたということだが、その増えたことにも理由があると考える。 可能性としてはいくつも考えられる。列挙してみる。 まず単純に客数が増えた場合。 次に、商圏内の人口は変わらなくて、なんらかの理由で白飯を買う客の比率が増えた場合。 なぜか日本中で白飯ブームが発生した場合。 あるいは逆に白飯以外の主食に対するバッシングがなんらかの理由で発生した場合。 ほかにも「可能性」だけでいえば無限にある。そしてその可能性のなかからデータによって現実的に否定されるもの(たとえば「客数が増えた」に関しては、実際に客数が増えてなければ仮説として却下することができる)を除外。あるいは「それありえないから」的なものも除外。 すると「ありそうな仮説」というのが浮かび上がってくる。もちろんそれが正解かどうかはわからない。 上記の例でいうと「商圏内にあった、競合となっていた弁当屋で白飯単体の取り扱いをやめた」という事実があれば、仮説を補強することになる。であるならば、弁当屋の大雑把な客数や食数を見積もって、そこから割り出される商圏内における「店で白飯を買う」ことに対する需要を考える。 そこで、需要めいっぱいまで発注するか、そこまで突っ込まないかは、発注者の判断による。 そして、実際に売れた数を見て「仮説が正しかったかどうかを検証する」。売れたかどうかも重要だけど、仮説が正しかったかどうかのほうがはるかに重要。もし仮説が正しかったなら、それは自分の判断とか観察が正しかったことになり、次につながる。 ということで、仮説と検証という概念を単純に言うのならば「物事にはすべて理由がある」というだけのことになる。上のテキストでいえば「IKEAがそのような売場であることには理由がある」というのが、すべての発想の始まりになる。逆説的に仮説のほうを推測してるわけだ。そして、仮説を導き出すために必要だったのが、小売業界全般に対する知識、ということになる。IKEAがふつうの家具屋とどう違うのかを知らなければ、この仮説は発見できない。 マグカップが29円というのも「安い」という事実の前で立ち止まって終わりになってしまいそうになるんだけど「29円であることには理由がある」と考えれば、疑問はいろいろ見出せる。なぜ29円なのか。IKEAに来る客そんなに安物に飛びつくのか。そんな貧乏なのか。いやいやそんなことはないでしょう。こいつら絶対ダイソーよりロフトのほうに価値見出すだろ。駐車場に並んでる車を見たって、そんな安い車ねーよ、みたいな。 考えながら書いてるから、話が二転三転するんだけど、してみると、上のテキストの肝になってるのは、俺の考えかたにしみついた「物事には必ず理由がある」というものらしい。物事は、疑おうと思えばどこまでも疑うことができる。そして、目の前にある物事の「特殊性」について疑うと特に効率がよろしい、ということなんだと思う。 以上「着眼点」については、そんな感じ。重要なのは、目の前の事実をそのまま受け取らず「なぜなのか」を掘り起こし続けるいい意味での猜疑心。そして「なぜ」に対して解答を与える知識の裏づけ。どんな商品にしたって「売る側の思惑」は必ずある。常にそのことを忘れない。 なんのビジネス教科書だこれ。昨日店に入荷したトヨタ式がどうこうって本に似たようなこと書いてあったぞ。カイゼンだカイゼン。 で、文章の技術のほうなんだけど、俺の書く文章というのは、原則悪文です。これは客観的にみても、どうひいき目にみても、変えられない事実だと思う。チャットでは「センス」という話が出たけど、俺にもし固有のセンスがあるとしたら(以下「ひいき目にみて」という前置詞が常に付くと思ってください。以下は、自分の文章をまるで他人が書いたように判断しながら書くんですが、なにしろ判断者が自分だし、俺は判断者としてはあまり適格ではないと思う)、せいぜい比喩的表現に見るべきものがあるくらいで、あとは大したことないと思う。 ここでは話を比喩的表現に限定して進めます。でもこれって、使うにあたって向いてる人と向いてない人がいるからなあ……。たとえばうちの奥様なんかだと、経験不足のせいで文章そのものはこなれてないですが、明解でわかりやすい、またリズムのまったく狂っていない文章を書きます(これこそは天性の資質のひとつだと思う。ド素人のなかに、たまにこういう文章を書く人はいる)が、比喩は使おうと思っても使えないそうです。なぜならば「それは、それ自体で、それ以外のものじゃないからだよ」だそーですが。たとえば、文学的には「闇の黒を混ぜ込んだような不吉な赤みを帯びて佇んでいる林檎」という表現は成立すると思う。これは「林檎」というものの置かれた場所、雰囲気、背景込みの描写にならざるを得ません。でも、まゆみさんに言わすと「だって林檎は林檎じゃん。林檎そのものは不吉でもなんでもないし、どこにあったって林檎じゃん。あんたの書くことおかしいよ」ということになってしまう。 比喩的表現を多用する人というのは、あるいはそれが得意な人というのは、いつか日記に書いたような気もするんだけど「世界に存在する無数の事象と、自分だけの秘密の契約を持ってる人」というような感じになるかと思います。目の前に海が広がっていたとして、その海の景色、におい、天候、そんなものを含めて、自分の目の前に広がる「海」という現象に無数の物語を見出せるような人。表面にあらわれた事象の背後に、連綿とつながる人間の物語を見出せるような人、っていうことになるでしょうか。汎神論的っていうか。で、そういう感受性が根底にあって、あとは読んだ文章の数勝負じゃねーかな。気に入った表現があったら、てきとーにパクっときゃいいんです。無意識の底に沈めて、いつかその表現が不意に浮上してくるその日まで。 で、「勢い」のほうについては、確かにこれは(たぶん)俺のテキストのウリのひとつなんですが、これ、その人のキャラクターと、あとは技術の問題だと思う。技術のほうは、これもパクリです。ネットうろうろしてて、おもしろそーな表現、自分がウケた表現があれば、まねすればいいんです。ひどいなこれ。 人がどこに「勢い」を見出すかは難しいところですけど、単純にいってエクスクラメーションマークでも増やしておけば、そりゃ勢いは演出できますよね。 例文。 「僕は昨日、おでんの具を買いにスーパーまで徒歩30分かけて行った」 改変。 「僕は昨日! おでんの具を買いに! スーパーまで、徒歩で30分かけて!!行った!!!」 もうちょっと改変。 「僕は昨日おでんの具を買いにスーパーまで徒歩で!徒歩で!!30分!!行きまくりんぐwww」 で、文章の構造をまるごと変えて、さらに勢いを演出。 「近所のスーパーまで徒歩30分! 最悪! すごい近所にスーパーない! もうやだ! 死ぬ! 徒歩30分で俺死ぬ! でもおでん食う! おでんがつがつ食う! だから歩く! でも帰りに道端で死ぬかもしれない。徒歩30分だから!」 こうなるともう文章と呼べるかどうか疑問ですけど。 まゆみさんが俺のテキストを指して「それにしてもあんたの文章っておおげさだよね」というのは、たぶんこういう部分を指してるんだと思います。俺は、おもしろければ誇張はありだと思ってるし、なにより自分が強く感じたことというのは、表現するうえで強調しておいて損はないと思うんです。 最後の文章だかなんだかわからないものに関しては、もうちょっと文章らしくすると、文脈にもよりますけど、以下のようにも書けます。 「おでんを食べたいと思った。しかし満足に具材を揃えられるような規模のスーパーは、徒歩圏内にはない。ふだんなら面倒ながらも車を出して、ということになると思うのだが、こんな日に限って、車は妻が横浜まで行くのに使っている。戻ってくるのは深夜になるという。覚悟を決めた。30分。歩けない距離ではない。それが昨日の話だ」 まゆみさんに言わすと、こうしたことはすべて事実の羅列だけで表現できるはずのことであって、その前後の登場人物の心理までは説明することはない、ということになります。 あと、センテンスを極端に長くするか、あるいは逆に短くするか、倒置法を多用するなどの方法によっても勢いとかは演出できると思います。改行の有無とかも重要ですね。 ただ、これはあくまで技巧ですから、特に意味もなく用いると、逆効果を招くことが往々にしてあります。結局のところ、そうした部分も含めて、まずは「読む」こと。そしてまねすることなんじゃないかなーと。別に書き写せというわけではない。自分の好きなテキストの人の芸風をまねてみる。 たとえば、お母さんの作ったおでん(またかよ)を食おうとしたら、蝿が入っていた。ありえねーみたいな内容を書くとして、それはどのようにでも書けるわけです。たとえばまゆみさんならば、 昨日、母ちゃんがひさしぶりにおでんを作った。やっぱり家のおでんがいちばんおいしいと感じる。 期待して待つ。 ようやく出てきた。さあ食べようと思ったら、たまごの上に蝿がいた。 ありえねえ! 母ちゃんに抗議した。 「そりゃ蝿だっておなかが空いてるのよ、きっと」 そういう問題じゃねえ。 で済む文章が、俺が書くとこうなります。 コンビニでおでんを作り自分でも作ってみて、さらにはほかの食堂とかでもおでんを食ってみてだ。やっぱりというかなんというか、自分の家で子供のころから食ったおでんよりもうまいと感じるものはない。これはもう家庭の味とかそんななまやさしいもんじゃなくて、一種の刷り込みなんじゃねーだろうか。世のすべてのとりあえず男つかまえとけ的な思考法をしがちなお嬢さん方に、特に強く伝えておきたいが、煮物の腕だけは鍛えておいたほうがいい。肉じゃがに引っかかるアホが多いってのは、都市伝説じゃない。 で、昨日ひさしぶりに母親の作るおでんを食う機会があった。 そりゃまあ、ひさしぶりですからね。期待もします。期待っていうほど強い感情じゃなくても、やっぱ家っていいなとか、まああるわけじゃないですか、そういう感情って。煮物のにおい、特に醤油混じりのやつって、特に関東人にとっては郷愁の原風景みたいな部分ってありますよね。 そんで、食卓についてだ。36歳にもなって。おでんを待ってるわけですよ。 さー、出てきたいただきまーす。 で、箸を取ったら。 なんかいるよ玉子の上に。フライ・オン・ア・エッグっすよ。蝿。まじくっきりと蝿。そこが俺の場所だみたいに蝿いるんですよ。でも死んでるけど。 「あの、おかーさま、蝿いるんですけど」 いちおー遠慮がちに言ってみました。36歳ともなると親子といっても、それなりの礼儀というものはわきまえます。作ってもらってる側ですから。 おかーさまは笑顔でおっしゃいました。 「そりゃ蝿だっておなかが空いてるのよ、きっと」 ……平然とおっしゃりやがりました。はい。 なにその本質を思いっきりずらしつつなかなか突っ込めない堂々とした言い訳! 俺が言いたいのは、そういうことじゃなく! 気がつかなかったんですか! 蝿乗ってることに! キッチンからここまで持ってくるあいだに乗ったとは言わせねえ! しかもそこ突っ込んだら「蝿の身にもなってごらんなさい。私はあなたをそんな思いやりのない子に育てた覚えはない」とか平然と言い張るわけだろ。 子供じゃないので、そんな言いかたにはごまかされないのです。 しかし、悲しいかな、この年になっても、子供は子供なのです。 ……まあ、そんな部分もひっくるめて、なんというか「母の作るおでん」というものを堪能してきましたよ。身内ってそんなもんかもなー。好きというわけでもなく、さりとて嫌いというほどでもない。「ただそのようにあるもの」として、あり続ける。永遠にそれは失われないような気がする。まー、それこそは幻想なんだけどさ。 でも、そういうもんなんだな、としみじみと、必ずしも積極的な意味合いだけじゃなく、しみじみと思わされたおでんの夜でした。 事実としては、まゆみさんが書いた(俺が勝手に書いたんだけど)文章ですべてです。そして、その事実の背後にあるものも含めて、すべては、文脈によって、要するに「語られざるエピソード」として表現されるべきだ、というのがまゆみさんの考えです。てゆうか、「GOSICK」とか読んでるとまさにそんな感じですけどね。あれは説明不足すぎると思う。わかる人だけわかれ、みたいな。 そこをすべて説明してしまうのが俺のやりかたです。事実に対して圧倒的な量の「俺の解釈」を施すことによって、俺のテキストはどんどん長文になっていく。また、あらかじめ前半で「肉じゃがはおふくろの味」的なことを挿入することで、一種の情緒的雰囲気を持つようにもする。俺自身は意識して書いてるわけではないですが、方法としてはそうなってると思う。 「文は人なり」と俺はチャットのなかで発言しましたけど、方法って結局無限にあるんですよね。俺が書いたやりかただと、情緒を「浮かび上がらせる」という方法になりますけど、もっと俯瞰しきってしまう方法もあるわけで。「蝿もおなかが空いてるのよ」という母の表情は、ほんの少しだけど、いたずらっ子のような笑みを浮かべていた、とか挿入してもいいわけですし。それに対してマジギレする語り手がいてもいいし「結局これか、母さんは」とか反応すれば、そこに適度な温度と湿度がある愛情を表現することもできる。 なんにせよ、まずは「書きたい内容」を明確に定めたうえで、それに対する自分の態度を確定、あとは読書量に裏づけされた「方法」を採用することじゃないかと。もちろん読書量なんか大したことなくても、なんとなくちゃんとできてしまう人もいますが、それこそは天性の才能ってやつですから。 ちなみに無駄な表現をとことんまで嫌うまゆみさんは、小説を読んでも「無駄な部分」ばかり探しています。というか気になってしかたないらしい。そして「表現」にすべてを賭ける俺は「上手な表現」ばかり探しています。 なんというか、そういうことなんじゃないかなーと。 なんか質問ありましたらまた答えますんで、コメントででもどーぞ。参考になればいいですけど。 11131文字ってなんだよこれ! 原稿用紙30枚分くらい!? ありえねー……。 |
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