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まゆみさんと「もてる男」について話した

店のバイトの男子高校生がものすごくしゃべります。しかも自分の話ばかりです。あれはもてない、ということで店の女子高生の意見はかたまっているようです。
そこでまゆみさんと「もてる男」の条件について考えてみました。

外見を重視するのは低年齢になるほどそうだと思います。高校生くらいでもまだそうでしょうか。ただ外見ってのはどうにもならない部分があるし、あとは努力で補える部分がかなり大きいんで、これは除外しておきます。人間は外見重要なのはまちがいないんですが、それはたとえば達成すべき基準値というやつで、これは万人がほぼ努力で達成可能なものだと思われます。

え「だからさー、俺が思うにやっぱ人に秀でた部分っていうか、その人しかできないことってのは重要だと思うんだよね。あと自信みたいなのか。なんにせよこう、突き抜けてる感じみたいなのが重要なんじゃねえかと思うわけよ。んで、腰が座ってる感じな」
ま「いや、だけどさ、ダメ男好きってのもいるよ、世のなかには」
ここでまゆみさんは、例として、店の夜勤の人で、38歳で親元で暮らしている男の人のことをあげました。その人は、まじめだけがとりえで、そして自分のことを病弱で情けない男だと思ってて、それでずっと母親に育てられたせいか、どことなくおっさんというよりおばちゃんの雰囲気がするような人です。
え「いやいやいや、あれは違うだろー。あれは……ほら、もてるダメ男の必須条件ってのがあるじゃん」
ま「なによ」
え「俺、おまえがいなきゃだめなんだよ、って真顔で言えるってやつ」
「あはははははは(爆笑してる)。そりゃだめだ。○○さん(その店の夜勤の人)だと、俺だめなんだよ、だけで終わっちゃいそう」
中略するだけでひどい意味の変更が達成されました。
「そうなんだよ。あの人が自分のことをダメっていうとき、別に女の人は必要としてないでしょう」
「あーあーわかる。あの人ってさ、女の人に言われそうだよね。あんた私がいてもいなくてもダメじゃん、とか」
まゆみさん絶好調です。ひどいにもほどがあります。
この会話はこのへんで終わったんですが、確かにこうやって考えてみると、女にもてやすい男とそうでない男というのはいるんじゃないか、という気がします。ただこれって狙ったところでおかしなくさみみたいなのが出てきて、結局見抜かれて終わるだけだと思うわけなんですが。マニュアル本とかいうのが結局役に立たないのは「ためにする」ものである以上、原理的に無駄な努力は必ず見抜かれることになってるから、じゃないでしょうか。もっとも「そうした努力そのものがいじらしい」という見方も存在する可能性があるわけで、一概には言えないですが。

まず、これはまゆみさんの絶対の持論なんですが「女よりしゃべる男はだめ」。しゃべることが場の雰囲気を盛り上げるためとか、女を楽しませるため、とかいう限りにおいてはまあアリなんだけど、自分のことばかりを話す男はろくなもんじゃない、と。聞き上手の話し上手なら問題ないんじゃないかな、などと申しております。初っ端から相当の難題を吹っかけてます。もっとも俺が思うに、話し上手ってのは、最初っからその概念のなかに「聞き上手」の部分を含んでるような気がしてしかたないです。たとえいくら人を笑わせることに長けていたとしても、人間関係ってのは一人でやるものじゃない以上、いつまでも独演会してたってしかたないわけです。別に芸人と観客じゃない。結局会話というけれども、そこで求められているのは「あなたとここに一緒にいることが楽しいよ」と伝えるのが主目的であって、よく言われるような会話術とかそんなもんは必ずしも必須じゃないんでしょう。つーか場合によっては邪魔なだけ。これはほぼすべての女性に当てはまるんじゃないでしょうか。実のところ相手が男だって話はそう変わらなくて、人に好かれやすい傾向を持つ人って、例外なく聞き上手なんじゃないだろうか。
次に、これは相手によってずいぶんと話は変わるんですが、一般的な女性に対しては効果があると思われるのが「あなたの存在を尊重している」ような態度。これも思いっきり要約してしまえば「あなたがここに存在していることが嬉しい」になってしまうんですが。ただこれって、相手の女が「自分の存在はそれだけで価値がある」と思ってる場合限定でしょう。女の人が「自分はこれだけのことができる人間なのだ」というプライドを持っている場合は、まったく話が逆になってしまう。
あとは男の側の問題として、実力に裏打ちされたプライドを持ってることですかね。いや、なんでもいいんだけど、とにかく突き抜けてること。青空に向かって「俺っていまこんなんだぜ!」とか絶叫できる一種の頭の悪さ。人間性に曇りがないことでしょうか。実力に裏打ちされたプライドを持っている人間は、それを軸に「崩れない個」みたいなのを持ってます。スポーツやってる人間がもてがちなのは、こうしたものを持っているような幻想を与えることができるからじゃないでしょうか。まあ、基本正直なほうがいいですわね。よく男の色気なんてことを言いますが、肉体的なことを別とすれば(それもまあ努力次第っていえばいえるんだけど、足の長さとかどうしようもないしねえ……)、こうした揺らがない個が崩れそうになる瞬間のことをいうんじゃないだろうか。あるいはそれにもかかわらず揺らがない、みたいな。あるいは絶対に揺らがない強さ、とか。どっちにしても「揺らぐ」というあたりに大きくかかってるような気はします。
あとは……そうだな。その男が、相手の女の人を選んだことに確固たる必然性があるように感じさせてあげられること。「おまえがいなきゃだめなんだ」は、完全にこれの類型です。相手の存在を尊重するってのと通底してると思いますけど、女の人が活躍する場所を与える、ということですね。つまり「私がついてなきゃだめなんだから……」です。

と、まあ、話をわかりやすくするためにあえて類型的に書いてみました。でもいまの若い世代だと、いろんなところがどーぶつっぽくなってるので、即物的なオスとしての性能に引き寄せられるような雰囲気はうかがえます。それもまあ、いいとこ20歳くらいまでなんじゃないかと思いますけど。将来のこと考えないとだめですから。もっとも、それに気づけないままずっと「オス幻想」みたいなのを追っかけるメスっぽい女の人がけっこういるのも確かなようですけど。

あーなんかこの話題飽きてきた。そんな感じ。終わり。

2007/06/26 14:39 カテゴリー: MK2がなんか書いた | 個別ページ | コメント (0) | トラックバック (0)

萌えとか 2

下から続いてます。あまりに長いのでひとつの記事におさまらなくて、二つに分けた……。前にもあったよね、こんなこと。


まあそんなわけで、そういう人が「萌え」について考えるわけです。
当事者であるということは、どうしても自分の背景について考えてないわけにはいかないので、あえて上記のような長文の痛々しい自己紹介をしてみました。
ここからいきなり専門用語が増えます。解説するのだるいんで、てきとーにぐぐってください。
萌えという言葉を俺の周辺で聞くようには、たぶん1990年代半ばくらいだと思うんですが、当初はごくごく軽い意味でのフィクションのキャラクターへの「かわいー、でもここにいねー、しかたないからベッドの上をごろごろ転げ回るよー」くらいの感じだったと思うんです。対象となるキャラクターの種類ではなく、萌える当事者であるダメ人間の感情の種類のほうが問題であって、少なくともそれは「マジ」な感じではなかったと思う。
圧倒的にこの用語を聞くようになったのは、俺はセーラームーンの土萌ほたるのあたりかと思ってたんですが、よく考えると「マルチ萌えー」の定型文のかたちで聞くようになったのが用例としてはいちばん爆発的に普及しはじめたころなんじゃないかと思います。もっとも「萌え」という言葉は、いまだにその定義が形作られている途上にある新しい単語だと俺は思っているんで、その発生当時ではなおのことそうで、それぞれのダメ人間な方たちが属するコミュニティによってかなり定義は違っていたはずです。
俺は、当初はこの「萌え」という単語を嫌っていました。かなり激しく。それは「軽い」感じがしたからです。俺にとってフィクションというのは、そのキャラクターも含めて「すべて」だったんです。フィクションのキャラクターより強い愛着を感じる存在は、現実に一人もいなかった。それは親兄弟も含めてです。むしろフィクションのためにすべてを捨てるべきだ、くらいに思ってた。だから、比較的軽い意味で使われることが多い「萌えー」っていう言葉で、そうしたたいせつな存在に対する愛情を相対化するような気分というのは、理解できない以上に嫌悪の対象でした。そういえば「萌え」という言葉には、当初から「自分の感じているこの感情」を相対化するような機能があった気がします。

その「萌え」という言葉が一種の形而上化みたいな変質を遂げるのは、いまのところ本田透をもって嚆矢とするのかもしれませんが、俺は本田透という人が文筆活動を始める以前の「しろはた」というサイトをあんまり知らないんです。当時からあまり好きじゃなかったから。このへんは俺より詳しい人がいっぱいいるでしょうからあんまり余計なことは言わないことにしておきます。
ただ、本田透の言う脳内恋愛とかそういう概念に直接つらなるような流れ。俺が「萌え」という用語を意識的に使うようになったのは、その流れの源流あたりであることはまちがいないと思います。こう言うとまるで俺が誇大妄想狂のようですが、実際には俺の前にも言語化していた先人たちはいました。俺は、自分がテキストを書きはじめた1999年あたりからしか状況を知らないのでなんとも言えない部分があるんですが、おそらくこうした人たちが、フィクションのなかにふつうの人が見出す以上のなにかを見出そうとした直接の契機は、「ONE」というゲームにあるのではないかと思います。このへんは傍証しかないです。
ただ、注意したいのは「萌え」という言葉が先にあって、そのあとに「脳内恋愛」のような概念が来たわけではありません。あくまで、フィクションの、それもエロゲの一部の作品のなかに、現実に替えがたい価値を見出すような人たちの一群が現れて、その後に「萌え」という単語が乗っかっていった、というのが実情です。これは「萌え」という単語を巡っては常につきまとう現象で、要するに広い意味での「フィクションのキャラクターへの恋愛めいた愛着」に対して、その感情を感じている当事者たち自身がうまい言葉を思いつけず、とりあえず「萌え」という言葉を採用した、という感じなんじゃないでしょうか。そして、そういうことがあちこちで同時多発的に起こっていた。そのうちのある流れを戦略的に採用したのが本田透という人ではなかったか、と俺は思っています(もちろん当人のやむにやまれぬ思いもあったでしょうけど。ただ本にして刊行し、概念として提唱してしまったからには個人の事情は斟酌すべきではないと思う。明確な理論として提唱する段階では、いろいろと切り捨ててしまった不都合なこともあるだろうし)。
ここから先は余談めいたものになるんですが、俺は本田透という人の本はあまり好きではありません。いくつか読みましたが、印象としてはやはり言い訳めいたものを感じる。あるいは「そうでなければならないのだ」という決め付けのようなものが先行している印象がある。
でも、当時、俺を含め、世間的にはとるにたらないどうでもいいようなものである「エロゲ」というものに、何事かの価値を見出そうとしていた人たちは、ただ「そうするよりほかしかたない」というかなり追い詰められた場所でそうした営為を繰り返していたと思います。そして、俺が見る限り、聡明な知性を持っていたそれらの人々は、自分たちの営為をイデオロギーにはしなかったと思う。ただ、自分と作品の向かい合いのなかで、何事かを模索していただけであって、そこに価値を含ませるような、いってみれば無粋なまねは決してしていなかったんじゃないだろうか。もっとも、本田透という人がそうでなかったということは断言できません。それこそ「戦略的」というように見えるんですから、意図的にやってるのかもしれないですし。
俺が本田透という人の言説に感じる違和感、もっと強くいってしまえば嫌悪のようなものは、彼の述べることにイデオロギーの側面がどうしても見えてしまうことが原因なんだと思います。脳内恋愛でもなんでもいいんですが、本来それは純粋であればあるほど、現実とは無関係なものになっていくほかない。愛するものがフィクションのなかにしかないのであれば、現実はどうでもいいはずです。そうは言っても人は生きていかなければならない。それはそうでしょう。俺たちの立場を認めろという主張もありうるのかもしれない。そこまで行くと、もう人はいかにして生きるべきかとかそんな話になってしまうんで、結局は個人の趣味の問題でしかなくなるんですけど、俺は、趣味としては「自分の選択した道ならば、そのことが引き起こす困難も含めて、すべて引き受けるべきだ」という人なんで、自分の選択のことで社会にとやかく言うのはどうかと思うわけです。
そして繰り返しくどくどと書きますが、フィクションを選んだのであれば、現実は否定してるんです。否定している以上、現実にいる自分がクソまみれであろうと、死にかけであろうと、そんなことはどうでもいい。逆に、どうでもいいものでなければならない。フィクションを愛することで自分自身が本当の意味で救われることは絶対にありません。なぜならこの肉体は現実に生きているからです。別に性欲がどうこういう話ではなく、美味しんぼをいくら読んだっておなかは膨れません。だから、だめなんです。そこを承知のうえで(承知してないで選ぶことは許されないと思う)選んだのであれば、現実は自分にとって無関係で「なければならない」。だから、現実を視野に入れている本田透という人の理論が、俺には、いってみれば「不純」に思えるのだと思います。

ちなみに、トラックバック先のナツさんとこが、萌えとエロとの関係について書いてるみたいなので、そのへんも考えておきたいんですけど、俺、どうしてもナツとこのコメント欄で交わされていた議論がわからなかったんです。なんでかなあと思ったら、自分の定義が一般的なものとずれてるから。
まず俺が考えるに、萌え系コンテンツというものは存在しないんです。俺が考えるに、それは作品と読む人の関係性の問題だと思うから。欲望のもとに消費するかどうか、という問題。まあ実際のところは「オタくさいもの」はみんなひっくるめて萌え系ってことでよいのだと思われるけど。要は一般人から見た視点だとどうなのかなって話。だから、ただ漠然と「オタくさいもの」と考えるに留める。ただこれも個別に見ていったときに、たとえば「よつばと」なんかどうなんだろうって話になる。まあ風香なんかは如実に作者の欲望が反映しているようにしか見えないけど、物語を構成している精神のようなものは、微量のノスタルジーを含有した、クソリアリズムのようなものだと思う。例として取り上げてしまったんで「よつばと」をネタに話を続けると、この物語を、よつばという子供の世界をただ仔細に描写しただけの物語としてみることはもちろん可能。実際そのようにして読んでいる人は多いと思う。しかし欲望の目線で読むことももちろん可能。そんなこと言い出したら、たとえさいとうたかをのマンガであっても欲望の目線で読むことは可能になってしまう。俺には不可能ですが。そう言い出した時点で「萌え系」というものは存在しなくなってしまう。最後に残る共通点は結局「あんな感じの絵」というものでしかない。
とはいえ、読者の欲望をそそるようにできているもの、というのは確かに存在する。萌え系とくくっていいジャンルのなかには、確かにそういうものが多い。属性入った時点で全部そうだろうし。属性というのはそもそもが「こういう傾向のものに俺は弱い、あるいは劣情をもよおす」という傾向をわかりやすく類型化したものだから、そもそもが欲望のもとでしか発生しない。それを具現化すれば、そのキャラは人間というよりは「欲望を引き受けるために誕生したダッチワイフ」ということになる。このダッチワイフ的状況が問題なのだと思う。
俺にしてみれば、ポルノ的なものも、男性的な世界観のみで形成されたゴルゴ13みたいなものも一緒に見えるんだけど、ひとつだけ大きく違うのは、ゴルゴ13は「男性的な世界観である世界を描写したもの」であって、結果としてその作品が読者にある種の快楽を提供するのだとしても、それはあくまで「物語」としての快楽だということ。読者はゴルゴ13を消費しない。楽しむわけだ。
対して、萌え系コンテンツの場合は、最初から男性の欲望に忠実なかたちで世界が形成されているし、またキャラクターもそのようになっている。萌え言うくらいだから、かわいい女の子(一部男の子も含む←そこ別に注釈入れるところじゃないから)が登場しないと話にならないわけで、そこでの読者の欲望は、多かれ少なかれ必ず恋愛的な何事かは含まれているはずだ。
萌え系コンテンツがポルノであるとするならば、核心はここだと思う。つまり、あらかじめ男性の欲望の形式を想定して、そこから逆算されて作られたようなものがポルノである、と。実際には逆算じゃなくても(つまり、やむにやまれぬ作者の欲求によって作られたのだとしても)結果としてそんな感じになってれば、ポルノになる。この定義だと、たとえばやぷうち優センセの作品でもポルノになりうる。だから結局は読む人と作品の関係だってさっき書いた(もっともやぶうちセンセがそのへん自覚的じゃないということは考えられないんだが)。
まるで欲望持つことが悪いみたいな言いかただけど、そうじゃない。恋愛感情(に類似のなにか、でもいい)には、ほぼ必ず性欲は含まれるものだ。そうじゃないこともありうるんだろうが、それは倒錯したかたちで性欲を満たしているに過ぎないと思う(ちなみに倒錯という言葉も別に悪い意味では使っていない。いちおーセックスしてーっていうのが正常なありかただとしたら、そうでなければ倒錯してるというだけだ)。
となれば、絵柄そのものが読者が感じる「かわいい」という感覚に奉仕している以上、萌え系コンテンツは全部ポルノということになる。あれ? なんだこの結論。なんかおかしくねえか。おまえさっき自分で言ってたことと違うこと言ってね? やっぱおかしいからこの結論やめた(とか言いつつ、身もふたもない結論は、たぶんこのへんにあるのだと思われる)。

まあ、例によって結論はナツさんが言ってたのとそう大差ない。だからといって萌え系コンテンツが悪いというわけじゃない。そんな壮絶な自己否定できません。
俺は前提として、すべての恋愛感情に性欲は必ず含まれるはずだと断言する人間なので、純愛なんてものはこの世に存在しないと考える。いや、性欲込みで純愛っていう別の定義はあるんだろうけど、とりあえずここではプラトニックとかそんな感じで考える。恋愛において肉体的側面は絶対に否定できない。対象が二次であっても同じだ。むしろ性欲がないのであれば、それは恋愛感情に擬した別のものなんじゃないだろうかくらいの勢い。あ、そーだ。ここで言う性欲っていうのは「手をつなぎたい」も性欲です。

なんか話が錯綜してるんだけど、これは俺の頭があんまりよくないからです。すいません。
もしポルノというものが、男性の欲望の形式から逆算されて作られているようなものであるとするなら、そのためにほかのなにかを犠牲にしてかまわないと考えるようなものであるとするならば、萌え系コンテンツといわれるものの相当部分がそれに該当すると思う。
ただ、それにもかかわらず、やっぱり俺は結局は、読む人が作品になにを見出すか、どうやって読むかの問題だと思うしかない。求めているものが人間ならば、たとえみさくら御大の作品であってもポルノではない(それは無理ねえか?)。求めているものが自分の欲望の充足ならば、鍵ゲーであろうともやっぱりポルノだ。そして実はこの両者はほとんどの男性のなかで不可分なものだと思う。
で、キモいと言われてキレる人の件なんですが、俺にはこれはまったく理解できないので完全スルーです。だって、作品は読む人のものであって、そこに他人関係ないし。もし他人になんか言われてキレるんだったら、そりゃ作品よりも世間の目が気になるってことでしかないだろうし。たとえどれだけボロクソ言われたって、脳内恋愛なり萌えなりがそんなたいせつなものだとしたら、隠れてでも読み続けるだろう。自分にとって至上の価値があるものならば、キモいと糾弾する人間のほうをむしろ「なにもわかってないかわいそうな人間」と見下すことになると思う。自分のこの楽しみを他人になど理解させてやるものか、と思うんじゃないだろうか。
もしそうでないとしたら、それはどこかに嘘がある。ごまかしがある。
以上、骨の髄から現実逃避癖のある人間がなんか書いてみました。
わからん。脳内がたいせつなら、なぜ現実を気にしなきゃならんのだ。すべて見たくないし、忘れたいだろうに。戦う気力も理由もないから逃避するんじゃないのか。やむにやまれぬ事情で逃避させられることなど人間にはない。人は自分の選択として逃避するんだ。力がない自分が心底嫌いで逃避するんだ。自分のことすら忘れたいだろう。なにもかもなかったことにしたいだろう。脳内恋愛を選択するってのはそういうことじゃないのか。主体である自分だけはこの世界で生かしておきたいって、それどこまでぬるいんだ。人はフィクションを選択したとき、現実的に死ぬんだよ。肉体は生きてるけど、半分死んでるんだよ。逃避するってのはそういうことだ。居場所なんかないんだ。居場所なんていらないんだ。否定すべき現実すら持ってない。
なんにもない。
なんにもないから、すがりついたんだよ。
そういうことなんじゃないのか。

2007/06/26 14:39 カテゴリー: MK2がなんか書いた | 個別ページ | コメント (0) | トラックバック (0)

萌えとか 1

あまりに長くなったんで、二分割です……。
どういう長さだ。もう削るのもめんどくせえ。
あ、ちなみに「1」のほうは、俺の痛々しい自己紹介が続くだけですんで、そういうの嫌いな人は飛ばして「2」のほうから読んでください。たぶんそれだけでも意味通じます。この「萌え」という問題についてはどうしても個人的な視点からしか書けないので、あえて自己紹介も入れてみただけです。論拠ってものも示せないし、だとしたら「こういう生活環境の人がこういう思考になりやすい」っていうだけでも根拠示せなきゃなーとか思って。
<a href="http://blog.goo.ne.jp/munimunigyafun/e/1f1b46ae17a0cdc6e8bafc30ce6df330">「萌えとか 2」</a>


当事者(だった)人にはうまく語れないんだろうなあと思いつつ、いちおー自分なりにまとめてみることにする。なんかあれだけコメントが伸びると、書き込んでいいものかどうか迷うし。もっとも、おおむねのところでトラックバック先のナツさんの言うことに賛同なわけなんですが、視点というか、組み立てかたはだいぶ違うと思う。

まず俺のスタンスというか来歴というか、この問題に対する立ち位置をはっきりさせておきます。このブログを読んでる方のうちかなりの部分の方がご存知のことでしょうから、わずらわしい人はてきとーにすっ飛ばしてください。あくまで俺のこと知らない人のための、論じる人の立ち位置の確認です。というのも俺は強度に主観的な人間で、論という感じで物事を一般化できないので、あらかじめバイアスかかってることを宣言しておくのが筋だと思うからです。あと「萌え」とかゆっても、俺の考えてるそれが世間で通用してるものと大きく違う可能性は高いです。これも当事者ゆえのズレでしょう。

俺は小学校4年生くらいから、一種のコミュニケーション障害みたいな人でした。小学校高学年から中学校あたりは学校生活の記憶というものがあんまりありません。修学旅行には行ったはずなんですが、そのへんの記憶がほとんどないです。事実の断片としては記憶してるんですが、連続した記憶がないんです。およそ友人と呼べるものもまったくいなかった。高校に関しても似たようなもので、ただこのときは少ないながらも友人がいたので、その周辺の記憶は比較的しっかりしてます。ただ、やっぱり日常的にどんな感じで学校で過ごしていたのかとか、学校の先生だとか、行事の記憶はほとんど曖昧です。たぶんなんかの病名がつく感じの人なんですが、俺は自分が「そういうもの」であることは完全に自分のせいだと判断していたし、また「病気」な感じの人は、外界の認識にそもそも狂いがあるのであって、たとえば俺が見る東京タワーと、ほかの人が見る東京タワーに、認識という点において大した齟齬がない以上、俺は限度は超えてない、だから病気じゃない、と判断してました。もっともこのへんでなんらかの対策を打ってれば、後に離人症っぽいことにならずに済んだのかもしれないんですけど。
じゃあ中学高校となにをやってたのかというと、ひたすら小説とかマンガを読んでました。その記憶のほうは驚くほど鮮明で、モノによってはいまでもセリフまで思い出せます。ちなみに読むマンガのほとんどは少女マンガでした。
これは俺の成育環境に原因があるんですけど、30年前の金で300万円の借金を残して父親がとつぜん死にまして、俺は6歳のときから母子家庭で育ちました。確かにまあそのプレッシャーというのは相当のものだったと思うわけですけど、それまで専業主婦やってのうのうと暮らしていた人が、今日からは300万の借金を背負って外で働くわけです。そしてそのことによるストレスというのがすべて俺に降りかかってきました。具体的には暴力(これは大したことなかったと思います。傷痕が残るレベルまでは行ってない)、育児放棄(これはたまにありました。唐突に一日帰ってこないとか)などです。このへんのことを書くといつも気分が悪くなるわけですが、それでも俺にとって森羅万象はネタなんでとりあえず書くわけですけど。
ただ、俺が成長する過程で決定的に悪影響があったのは、たぶん母親の男への依存体質と、そうした自分自身に対する深刻な嫌悪です。それは男性という存在全体への憎悪というかたちで表現されていました。にもかかわらずどうしようもない男好き。また、借金を返すうえで俺(妹もいました)という子供の存在が重荷だったのは確かだったようで、そこに愛情がなかったわけではないと思うんですが、同時に「おまえさえいなければ」という発言はたびたびありました。
さらにねじれていたのは、このへんのことがすべてごっちゃになって「おまえが男であることは悪いことだ」という方向で俺をたびたび攻撃したことです。俺は「おまえが男でさえなければ無条件で受け入れてやれたのに」という無理難題を押し付けられました。まあ実質受け入れられてないも一緒なんですけど。
また、もうひとつ厄介だったのは、母親は俺のことを完全に所有物とみなしていて「おまえの生殺与奪のすべては自分が握っている」という態度を常に見せたことです。つまり「逆らえれば捨てる」ということです。「おまえ自身の考えていることを捨てて、私にしたがえば、おまえを受け入れてやる」ということなんですが、この裏側に「しかし男だから受け入れられない」というのが常に見え隠れしています。
あともうひとつの要因としては、母親は上述のように悪い意味で男好きの人でしたので、たびたび不倫騒動を起こしていました。で、その相手の男の妻という人からたびたび電話がかかってくるのです。そのうちの一人は相当に悪質で、母親ではなく子供の俺しかいない時間帯を狙って必ず攻撃してくる、というような状況です。いまにして考えれば、これは手段としてかなり有効だったと思うんですが、相手も予想外だったと思われるのは、俺が母親にそのことを報告しても「それは相手が異常なんだから放っておきなさい」ということで、まったく取り合わなかったことです。ちなみにその女の人の言うことは主に「おまえの母親は最低の人間だ。売女だ」などでした。俺はその内容を母親にははっきりと伝えませんでしたが、まあ子供心になんとなくわかっていたんでしょう。伝えるべきことでもない、と。

まあ、そんなような前提となる状況があって、俺は小学校4年生くらいには「この世界には信じられるものはなにもない」と思うようになっていました。ああ、ひとつだけ信じられるものがありました。金です。金さえあればどうにかなると思いました。自分がどんな人間であろうと、それは相手が自分を受け入れることとはまったく無関係だと思っていて、ただ金だけは絶対の価値があって、もし自分がそれを持っていれば、たぶんだれかは金目当てに日々のごはんくらいはくれるんじゃないか、と思っていたわけです。
それで、ある日、決定打となる出来事がありました。
ある日、家に帰るとだれもいません。母親はごくふつうに仕事でしたし、妹を保育園に迎えに行くのは自分の仕事だったので、そのこと自体は別に驚くことではないです。しかし、保育園に妹を迎えに行っても、妹はすでに母親が迎えに行ったあとでした。それで俺は家に帰ったのですが、夜になってもだれも帰ってきません。あとになってわかったんですが、このとき母親は、電車で5時間くらいかかる場所に、泊りがけでコンサートを見に行っていたらしいです。
それがどの季節のことだったのかは覚えてないんですが、確かストーブは必要じゃない季節だった気がします。この夜に、俺は自分はこの世界から見捨てられた人間だということを知りました。暗くなったら電気をつけなければならないんですが、電気をつけに行くために立ち上がることすら恐ろしかった。動いたらその瞬間、暗闇に潜んでいたものが襲い掛かってきて俺を殺そうとするのではないか、と思えたからです。その恐怖から逃れるために、たまたま手近にあった本を読みました。恐怖を忘れるために自分のすべてをそこに放り込んで読みました。それまでも本を読むのは好きだったし、マンガも好きだったんですが、俺が異常なのめりこみかたを示すようになったのは、たぶんこのときからです。俺は「この世界に幸福なことはない。ただ、フィクションのなかにだけある」と思うようになりました。

すぐに俺の読書傾向は少女マンガ一辺倒になりました。ここにはかなり倒錯した欲求があったと思うんですが、少なくとも少女マンガを読んでそこに感情移入している限りは、俺は親が望むとおりの「男ではないもの」になることができました。こうして俺は、素敵に男性性の獲得に大失敗☆ フィクションにのめりこむ一方だったので、まともな人間関係の構築方法の習得にも大失敗☆ 中学生のころ、一度だけ周囲の景色が見えたことがあるんですが、そのとき「あれ? なんかみんな俺にはよくわからない行動原理で動いてる」とか思ってびっくりした記憶があります。そのとき「わかんないからいいや」と思ってまたフィクションの世界に戻っていってしまいました。それどないやねん。

さらにここからが笑えるんですが、俺はこの状況をなんと28歳だったか29歳くらいまで引っ張りました。ありえません。24歳だか25歳くらいのとき、ちょっと自分を取り巻く世界とか人間のすべてが、まるでなにかに動かされてる人形のように見えてきて、それと関係している自分もまただれかから動かされているような気がして、フィクションを摂取してる自分だけがリアルだった時期があったんですが、そこからあとは、なかば自覚的に「俺はフィクションに生きて、そのままだれとも関係を結ばずに野たれ死にするから」とか思うようになりました。
友人はかろうじていたんですが、当然ながらそんな状況では男女交際など望むべくもありません。俺は友情も愛情もすべてフィクションのなかに見出すしかなかったんですが、そんな状況のなかで出会ったのがエロゲでした。
エロゲっていうと、抜き目的のために作られてるかのように思う人が多いかと思うんですが、ある時期から以降、エロゲの一部は擬似恋愛装置として機能しはじめていたと思います。俺はその流れに乗った人のひとりでした。ここから先は以前の「づしの森」というサイトをご存知の方には話す必要もないと思いますが、いちおー解説しておきますと、俺は、フィクションのキャラクターにマジ恋愛をしてはそれがかなえられないことに絶望するというおもしろスパイラルを繰り返し、その様子をテキストにて逐次報告するという、ふつうあんまりやんないような裸踊りを繰り返し、「AIR」というゲームの神尾観鈴というキャラに出会ってそのスパイラルが最大の振幅を示したそのあとで「ああ、やっぱりフィクションのキャラクターは俺を救わないなあ」という、まるでサンタさんはこの世のどこにもいないんだ、と悟ってがっかりした5歳児のような結論に到達したわけです。なんでそんなおもしろい人生を送ったのかは自分でも謎ですが、謎っていうかそこまでだれもなにも教えてくれなかったし、自分でも学ぶ気がなかったっていうそれだけの話のような気もしますけど。さらにそのことをまったく後悔していない自分に拍手を起こりたくなります。エヴァのラストの「おめでとう」くらいの感じで。

2007/06/26 14:38 カテゴリー: MK2がなんか書いた | 個別ページ | コメント (10) | トラックバック (0)

ちびすけちゃんはパイナップルジュースをなめた

いつのまにかまた「長大なテキストを書かなければ」というわけのわからない先入観に縛られていたえむけーつーです。思い出したように更新を開始します。

今日は仕事が終わったあと、俺のタバコを買いに行きました。俺はJPSメンソールという沖縄限定発売のタバコを無理やり吸ってるので、買いに行くのに車で1時間近くかけなければならないのです。よくやる。でもうまいんですよ。ちゃんとタバコの味もして、ほんのりメンソール。クールがリニューアル以来、最近の流行のメンソール強めの方向に進んでしまったため、俺としてはおいしいメンソールのタバコがなくて困っていたのです。それはそれとしてクールライトのフルメタル缶だけは買っておこう。缶が欲しい。
で、ついでといってはなんですが、うさぎのちびすけちゃんがどうもここ数日おなかの調子が悪いです。うさぎが元気なかったりおなかの調子が悪かったりするときは、パイナップルのジュースが定番らしいので、それも買ってくることにしました。探してみるとパイナップルのジュースってあんがい売ってなかったりするのです。
横須賀にショッピングモールみたいなところがありまして、そこに行ってきました。
ついでにまゆみさんがおなかが空いたというので、杵屋でうどん食ってきました。まゆみさんはうどんとそばの盛り合わせを註文しました。そばだけ大盛りです。総合的にかなりのボリュームがあったようです。あと杵屋のうどんは太いです。一度に箸で2本挟むともう後悔。
あとは本屋に行きましたが買いたいものはなかったです。実際のところ俺は本屋に行って本を眺めるのが好きで、あと本を買うのが好きで、読むほうはそんなに好きでもないんじゃないかと思いました。あ、でも花村萬月の新刊は欲しかったかも。文庫落ち待ちかなあ。
同じショッピングモールで、まゆみさんがかねてから欲しがっていたフレディ・マーキュリーのベスト盤を買いました。そのジャケットにフレディ・マーキュリーが若いころの写真が載っているのですが、これがまるでなんかの王子様のようで笑えます。俺くらいの世代ですと、フレディというとやっぱり「世界中のホモのアイドル」という印象が強いので、ヒゲもはやしてなくて胸毛も見せていないフレディはなんかのまちがいじゃないかと思えます。俺、フレディ・マーキュリーの顔よりも胸毛のほうが記憶に強く残ってるかもしれません。分布とか。
帰りの車のなかで、なぜか銀河鉄道999のあらすじをまゆみさんに説明しました。機械伯爵にお母さんを殺された鉄郎が、復讐のために機械の体を手に入れようと思ったけど方法がない。パスかなんか盗もうとした相手がメーテルで、終点は惑星メーテルです。銀河鉄道999がまるで鶴見線みたいな短さに思えるから不思議です。海芝浦くらいの勢いで惑星メーテル。
家に帰って、いまちびすけちゃんにパイナップルのジュースをあげてみたんですが、ものすごい微妙な反応を示しています。首だけ突き出してぺろっとなめたかと思うと、びくっとしてバックステップを踏んで逃げます。そういえばうさぎさん用ドライフルーツも一緒に買ってきたんですが、こっちのほうは食べてるみたいです。
季節の変わり目とかそんな理由だけで体調が悪いのならいいんですけど。ちびすけちゃんは、小屋が20センチくらい移動しただけでストレスになってしまうおそろしく神経質なうさぎなので、うかつに病院に連れていけないのです。以前に連れていったとき、家に帰ってからしばらく、おびえてあんまり動かなくなってしまったのです。
ちなみにでかすけちゃんにはブロッコリーをあげました。でかすけちゃんは、暑さに強く寒さに強い、さらには食い物もなんでも食ううさぎです。こいつ野良うさぎとしてどこでも生きていける、みたいな。いまはトイレに敷き詰めてある牧草を食べています。ふつうに食べる用の牧草もあるのに。ブロッコリーの食べかたは、まるで肉食獣です。もしブロッコリーが動物ならば、二噛みくらいで死んでると思います。
そんな一日でした。今日は夜、新商品の展開があるので早めに寝ます。

2007/06/26 14:38 カテゴリー: MK2がなんか書いた | 個別ページ | コメント (10) | トラックバック (0)

まゆみさんは合羽橋道具街に行った

ええっ、おまえ更新なんて日本語覚えてたんですかえむけーつーです。だいじょぶです。更新します。できます。できるんです。てゆうかまゆみさんにおともだちを作るという当初の目的はどこかに行ってしまい、いや忘れてるわけじゃないんです忘れてないんですが、気がつくと「俺が」「俺が」という一人称ばかり増えてしまい、結局おまえ昔からなにも変わってないんだな、といういもしない友の声が耳に響いてきます。
前置きだけでこんなに使ってしまいました。ケータイで読んでる方は、駅で4つか5つ分は行けるみたいですんで、暇つぶしに活用してくれたら嬉しいです。えへへ。

さて、今日はまゆみさんと合羽橋道具街というところに行ってきました。一発で変換できやがれこのMS-IME。まあいい。今日のところは許してやる。今後逆らうようなら、エロゲキャラの辞書登録まみれの恥ずかしい辞書にしてやる。そして恥ずかしい思いをするのは実は俺だ。ごめんなさい。生まれてきてしまいました。俺が生まれた日というのは、きっと範馬勇次郎が生まれたときと逆のベクトルで、世界中が震撼したと思います。えーと、なんかみんなうんこ漏らすとか。すいません。36歳の書くことじゃなかったです。俺なんでデトロイトメタルシティそんなに好きじゃないんだろうな。心の琴線に触れてもおかしくないのに。

夜勤が終わって、とにかく家にいったん帰って足を洗う。くさいんです。足洗わないとまゆみさんが喘息なんです。ついでに眠くなったとき用のCDをてきとーに持って、そのまま車で東京まで直行。
当然ながら眠いわけです。仮眠とってから行けばいいようなもんなんですが、夜勤が終わるのが早朝で、通勤ラッシュとかに巻き込まれたくなかったんですよね。
ちなみに眠いときの運転の心がまえとしては、なにはともあれ、絶対に高速を利用しちゃだめです。人によるんでしょうが、俺は高速を利用すると、たとえどんなに睡眠時間をたっぷり補給したあとであっても眠くなります。渋滞もそこそこ眠くなるんですけど、高速よりははるかにマシ。それにもし事故ったとしても渋滞中なら命には関わりません。ぶつけた相手がなんかものすごい体格のいい見境なしのホモの人で、たまたま好みのタイプが俺みたいなので「金はいい。体で払え」とか言われて、毎日まいにちかっぽんかっぽんすぱーんすぱーんとかやられて、しかも実は相手がエイズだったとかだったら命に別状あるかもしれませんが。その前に、その前にひ、ひろがっ(以下俺の脳内におけるまゆみさんフィルターに引っかかってしまったため自己規制。ひょっとして手遅れかもしれない)。
とりあえずしばらく高速に乗って狩場のインターで降りて、そこから一般道でものすごくとろとろと行こうという無謀なことを考えました。けっこう我慢したんですが、都内に入ったあたりからいいかげんキレてきて結局首都高に乗った。そのころにはまゆみさんはサンバーたんが誇る後部の荷室の仮眠スペースで熟睡中。あれものすごく居心地よさそうなのです。
BGMは、最初はクイーンをかけてたんですが、どうにも眠くなってきたので、俺の持参したCDをかけることにしました。まゆみさんと俺の音楽の趣味は致命的なまでに合わないのでふだんは俺が自粛してるんですが、眠いときばかりはどうしようもないです。
家から持ってきたCDは、クランベリーズとかレディオヘッドとか、あとなぜかキャロル・キングとザバダック。まゆみさんはどちらかというとサウンド的にはアメリカ的な明快さとストレートな3ピース好きみたいな部分があるんですが、そういう人のいる車内でかけるのに、俺はどうしてこういう選択をしてしまうんでしょう。

俺は首都高があんまり好きじゃないのです。首都高にふつうに乗ってるだけで「これが首都高バトルというものか」と思ってしまうくらいに。やっぱ都心部が恐怖ですね。これは慣れない人ならみんな思うんじゃないだろうか。あんなRの小さい道路でみんな100キロとか出すし、合流は極端に短いし、分岐合流また分岐、しかも出口が右側にあったりする。もうどうしていいかわからない。
今日は合羽橋ということで浅草近辺ですから、とりあえずなんとなく1号に乗って上野あたりで降りようと思ってました。都心部付近の合流分岐の繰り返しで緊張する部分を通過したあたりで、BGMはザバダック。そこでまゆみさんがなんの前触れもなく起床。
「これはひどい」
ザバダックのボーカルのことです。
……そういうことゆっちゃ、だめ。

上野で降りてから、例によって地図を見ないでてきとーに走ってたらやっぱり合羽橋にたどりつけなくてぐるぐるしたりして、最終的にニイミの巨大な顔が見えてようやく到着。そしてコインパーキングかなんかを探すんですが、やっぱり見つかりづらい。東京23区内に車で行くとこれがガンですわね。
今日合羽橋に来たのは、店の駄菓子の陳列で使う什器を入手するのが目的です。ほら、よく小さいガムとか飴とかが入ってるプラスチックのポットみたいなのあるじゃないですか。あれを使って駄菓子を陳列してはどうか、と、よその店がそうやってるのを見て、完全にパクることを思いついたのです。すみません。なにも思いついてません。でもいいの。陳列に著作権ないから。売れれば正義。

ここのところまゆみさんは風邪気味でした。ふつうの人が風邪気味というのと違って、もともと喘息持ちのまゆみさんにとって、風邪っていうのは場合によってはそのまま入院コースの大病になりうる恐れのあるヤバい状況です。まあ、今回の場合、風邪のタチがそんなに悪くなかったのか、ゆっくり動けばなんとかなる状況だったらしいので、ふつうに一緒に合羽橋を回ることにしました。
ここまで合羽橋道具街というのがどういうものか説明してないですが、知りたい方はてきとーにぐぐってください。要はもともと厨房用品の問屋街だったんですが、それが発展して「店舗用品ならなんでも揃う」というタイプの街に発展してったんだと思います。街の原型は飲食店用品の取り扱いだと思う。
で、このプラスチックのケースなんですが、ない。どこに行ってもない。駄菓子屋さんとか100均とかで売ってくれないかと思ったんだけど、これも大した数は手に入らない。
ちなみに探していたものは「角猫」あるいは「丸猫」が正式名称だったらしいんですが、その正式名称を知らない状況で、いくらネットで検索かけても見つからない。しかたないんで最後の手段として、わざわざ合羽橋まで出向こうという気になったのです。
ちなみに、正式名称を知っていれば、
<a href="http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q119322381">http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q119322381</a>
ということで、なんの苦労もなかったのにね……。

上記のURLの場所以外にも1件扱っているお店があって、俺らはそっちで買いました。ほかにも和菓子用の陳列什器を探したりとかいろいろしたんですけど、そっちは結局収穫なし。
あと、合羽橋まで出向いたのはまだいくつか目的があって、ひとつはまゆみさんがふだん食うガムをまとめて買おうかなーと思ってたのです。まゆみさんはミント系のガムが徹底してだめな人で、しかもレモン味好き、でも過剰にすっぱいのはだめ、というかなり限定された嗜好を持っています。世にガムがいったいどれだけの種類流通しているのかは知りませんが、それくらいありそうなもんじゃないですか。
このテキストを読んでる方のなかにも、日常的にガムを食ってる人がいるかもしれませんが、そのガムはなんでしょうか。いまいちばん売れてるのは、ロッテのキシリトールの緑色のやつ。あとはキシリッシュ、ピュアホワイト、ホワイティア、クロレッツ、プラスエックス、リカルデント。まあメジャーなのはこのへんで、あとはロッテの板ガム(クールミントとか)とかでだいたい含まれると思うんですが、このなかでミントがごく微量でも入っていないものとなると、非常に少ないです。そしてレモン味はないです。
唯一ブルボンから出てるレモンガムってのがそれにあたるんですが、そんなん滅多に置いてない。合羽橋道具街には菓子問屋(小売もやってくれる)もあったんで、ついでに行ってみようかな、と。
これに関しては結局、そこにもなかったです。どこにあるんだろう。まゆみさんの幻のレモンガム。
あともうひとつの目的は、喫茶店を探すこと。
20年くらい前でしょうか、俺の母親がどこかの会社の社員食堂の立ち上げを任された際、合羽橋に荷物持ちで連れてこられたんですが、そのとき入った喫茶店がめちゃくちゃうまかったのです。俺はその店で初めてエスプレッソというコーヒーを知りまして、それ以来エスプレッソばっか飲んでるわけです。喫茶オンリーってのがそれかと思ってためしに行ってみたんですが、違いました。ブレンド頼んだんだけど、それほどおいしいものでもなかったしなあ。

最大の目的のプラスチックのケースは無事入手。
最初は30くらい買おうと思ってたんですが、店のオヤジによると64が最小単位だとのこと。
「でもさ、けっこうバラで売ってくれっていう需要もありますから、お分けしますよ。ただこの値段なんだけど、やっぱり1000とかのオーダーだったら安くできるんだけど、小分けだからね。高くなるよ」
と、愛想のカケラもない顔で言われた。

1000て。

意味わからない。
いやまあ、問屋なんだからそういうこともあるのかもしれないけどさ。
で、1単位64個。そこから単価が安くなる。
そんなに必要なのか。いや、必要とできるのか。
しかたないんで、その場で店に電話して、実際棚にいくつくらいケースが入りそうなのかを確認してもらった結果、64あってもなんとか使いきれるだろうということが判明。オヤジに「ケースでもいいですよ。まとめて買います」と伝えたところ、その瞬間態度が豹変。
ものすごいうきうき顔で俊敏な対応。

ああ、なるほど、と俺は思った。要するに問屋として商売をやってる人にしてみれば、ケース買いとかの単位のでかい人間にして、ようやく「客扱い」できるんだと。これ、ほかの店でおでんののぼりを買ったときも同じようなことがあったんです。せっかく買ったんだから、ついでにオーダーメイドとかできるか、のれんはどんなものがあるのか質問しようと思ったんですが、ある程度質問したところで「それは場合によりますからねえ、なんとも申しようがないです」と、それまで愛想よく応じていたオヤジが、いきなり手のひらを返したように素っ気ない態度になった。その態度の意味は、たぶんこう。
「のぼり一本買ったくらいで客ヅラすんじゃねえよ。それ以上のことが教えてほしければ、ちゃんとした顧客としてまとまったもの買うか、何度か店に来るか、少なくとも名刺くらいは渡してみせろ」
要するに、小売ではなく、業者相手に商売をやってる人にしてみれば、情報そのものが価値を持ちうるものだし、そもそも固定した「顧客」相手に商売をやってるわけです。お互い信用を築いて年単位、あるいは10年20年の付き合いを続けて「相手がなにを望んでいるのか。それに適したものを提供できるか」というところが商売の肝。自分の一存で顧客の商売繁盛の是非が決まることもありうる以上、身元も定かじゃない一見にうかつなことをしゃべるわけにもいかない。
なんか嬉しくなってきましたよ。そういう態度とられて。おもしろいじゃないですか。この世界にはこういう世界観で動いてる人たちもいる。おもしろい。
なんていうのかな、まじめに小売をやってる人たちって身動きとか雰囲気にやっぱり共通の特徴があるんですよ。まず反応が俊敏。打てば響くように返事がかえってくる。そして身動きが機敏。街で働いてる人全体の動きがそんな感じで、とにかく「能率よく」動いてるように見える。
そんなようなことをまゆみさんに言ったところ、
「そりゃそうだよー。だって、この街の人たちって、商売やってる人相手の商売なわけじゃん」
一般の客と違って、自分も商売をやってる人は、それだけ見る目も厳しいし、求めるものも大きい。確かに。そのとおりです。

ああそうそう。書き忘れた。さっきの「1000」っていう単位。だれがそんなに駄菓子用のプラスチックのケースなんぞ使うのかと思ったら。
商品を詰めたり準備したりするあいだに、オヤジが説明してくれた。
驚きましたよ。さすがに問屋です。たとえばバンダイとか。川越の駄菓子やとか。そういうところ納入するらしい。要するに駄菓子を製造する側がこの問屋さんからケースを買ってるわけです。俺は小売をやっていても流通には素人です。ああいう大企業なんかは、工場から直で買うんだと思ってたんだけど、実際は、コンビニやらスーパーやらの店頭に並ぶ駄菓子やキャラポットなんかのうち、かなりの部分には、目の前のこの小柄なオヤジが絡んでる。そういう大企業相手に規模のでかい商売をやってると思うと、なんだかオヤジがとつぜんすげえ人間のように思えてきました。

途中まゆみさんが喘息がひどくなってきて歩くのがつらくなってきたり、まあいろいろやりながら合羽橋道具街での用事終了。
しかしまゆみさんの幻のレモンガムが手に入らなかったので、
<a href="http://www.maboroshi-ch.com/rep/inq_05.htm">http://www.maboroshi-ch.com/rep/inq_05.htm</a>
ここの、日暮里の駄菓子問屋街にでも行ってみようと思ったんですが、事前の下調べがなかったせいで、こっちは断念。見つかるわけねえよな、あてずっぽうで。

せっかくここまで来たんで、秋葉原にも行ってきました。
以下、強度にエロゲ話が混じるので、知識のない方は読み飛ばすか、ぐぐりまくり推奨。
最近エロゲって店頭で買うのけっこう難しいんですよね。特に僻地に住んでると。
そして秋葉原の駐車場事情の悪さはあいかわらず圧巻です。いやもう、そもそもないし、あったとしても満車ばっか。しかたないんで少し離れたコインパーキングに止めて徒歩。
特にどのエロゲが欲しいってのはなかったんですが、ナルキッソスがよかったってのもあって、ねこねこソフトのをなんか買おうかなーと思ってたんです。
ちなみにナルキッソスはこちら。
<a href="http://stage-nana.sakura.ne.jp/index_j.htm">http://stage-nana.sakura.ne.jp/index_j.htm</a>
無料でダウンロードできます。泣きかつ鬱でも平気な方はぜひ一度どーぞ。エロないです。
あとは車のなかでレディオヘッド聞いてたら無性にマイブラ聞きたくなりまして、ラブレスは音源は持ってるんですが、やっぱCDのかたちで欲しいなーと思って、それも買おうかなーと。
まゆみさんは疲れていたので車でお留守番。

しかし秋葉原という街は変遷が激しい。かつてはエロゲの中古屋なんて頭のなかでマップ作れるくらい知ってたんですが、もういまとなっちゃなんだかわかんないですもん。メイドさんビラ配ってるし。しかたないんで、メッセサンオーとかソフマップとかてきとーに巡回。
車のなかで待っているまゆみさんに途中報告すべく電話。
「というわけで、5階まですべて大便用個室が埋まっているザコンで粗相しそうになりながらも、なんとか所要を済まし、これから任務開始であります」
「そんなこと報告すんな。まあいいや。そんなあんたに任務を与えよう。わたしにおみやげを買ってこい」
「おみやげ? アキバで?」
「そうだ」
「えーと」
周囲を見渡します。
「ごめんなさい。マニアくさいもの以外のものが買える場所が、エクセルシオールとドンキくらいしか見当たりません。俺にパニーニとチャイナ服でも買ってこいということでありますか」
「いや、だからそれでいいって。わたしがおもしろがれそうなエロゲ買ってきて」
「って言われても……」
俺だって昨今のエロゲ事情には詳しくないのです。てゆうかいまさらねこねこだよ? クラナドも終わってないよ?
とりあえずまゆみさんの嗜好だけ再確認。
「えーと、なんか事件が起こって、物語性があって、テキスト読めればいいんだよね」
「うん、まあ……そんなとこ」
「わかった。がんばって探してみます……」

さて。妻にエロゲをおみやげとして買う夫。
意味わからない状況ですが、任務は任務です。がんばります。
とりあえずまゆみさんはC†Cが比較的気に入っている。じゃあロミオか山田一でいんじゃね?ということで家族計画を第一目標に。最悪なんにもなかったらニトロプラスあたりで。
しかし見つからんのですよ。いまさら。D.Oのあたりみても触手っぽいのばっかだし(それは先入観かもしれません)。エロゲって極端に販売期間が短いです。中古市場にしても古いものはない。ライターに固定ファンがいそうな人の作品なんかなおのことです。
しかたないのでソフトハウスの五十音順で探してみるんですが、もうすごい肉色の嵐。俺の彼女はロリで巨乳でって言われても。自分の奥さんに抜きゲーすすめてどうする。「あんたこういうのが好きなんだ」とか言われてそれで終わりですよ。そんなこんなで四苦八苦してるうちに「あー、そういえばminoriって手はありか」と思った。AngelType以外で(これは持ってるので)。そんなわけで、minoriのソフトを一本購入。タイトル忘れた。いままゆみさんがやってます。終わったら感想でも聞いてみる。
自分のぶんは、ねこねこのやつで真っ先に目についたサナララなんか購入。家に帰ってからサナララのパッケージ見せたら「ねえ、これ、何歳?」と聞かれました。「あんたこういうのが好きなんだ」とは言われませんでした。違うの。ちが、ちが、ほんとにたまたま目に入っただけで、あの、ちが……っ。

あとはマイブラ2枚買って車に戻る。

なんか書くの疲れてきた……。
あとは車でおうちに帰りました。帰りの車のなかでマイブラかけてたんですが、まゆみさんが気に入ったのには驚きました。だって、グレイ、氷室、それで「声がいいから」っていう理由でクイーンを気に入った人(それだってDon't stop me nowみたいな路線がお気に入りなわけですよ)が、まさかいきなりマイブラに行くとは思わないじゃないですか。
あとはてきとーに仕事してうち帰ってきました。

ふー長かった。
読んだ方もお疲れさまでした……。

2007/06/26 14:37 カテゴリー: MK2がなんか書いた | 個別ページ | コメント (8) | トラックバック (0)

まゆみさんは太平洋を見た

2日連続更新なんて気が狂ったんですかえむけーつーですこんばんわ。

今日は仕事が休みでしたので、ドライブに行くことにしました。フェリーで対岸に渡って、九十九里浜に行ってみようという計画です。距離的にはそんなに時間かからずに行って帰ってこれるかな、と思ったので。なんで九十九里浜なのかというと、単にフェリーの割引券があったのと、あとは行ったことがなかったからです。
途中、うさぎのぬかづけちゃんにえさをやり忘れたことに気がついたのですが、どうせふだんから牧草を食わない悪いうさぎなので、こういう機会に腹をすかして牧草を食ってもらうことにしました。うさぎは本来牧草を食わないと健康を保てないのですが、ぬかづけちゃんは牧草を食い物だと認識していないようで、床に全部ばらまいて遊んでそれで終わりなのです。片っ端から牧草を引き抜いては床に捨てる姿を見てると、たまにぶっ殺したくなるときがあります。
そんなわけで、ぬかづけちゃんはただ牧草だけ与えられてあとは放置されることになりました。

久里浜のフェリー乗り場には食堂があります。いままでフェリーに乗ったときは、どういうわけか時間ちょうどにフェリー乗り場に着くことがほとんどで、食堂を利用する機会がなかったのです。今日は、幸か不幸か待ち時間がかなりあったし、まゆみさんは腹が減っているというので、食堂で食べてみることになりました。
俺はカレーライスを註文し、まゆみさんはカレーそばを註文しました。
俺はカレーが大好きなのですが、福神漬けが食えません。食堂の、人だけよくてやる気なさそうで日々の生活の苦労がしみついているにもかかわらずつまみ食いが多くてかなりふくよかっぽいとかそんな感じのおばちゃんに、念を押すように「福神漬けはいらない」と言いました。秒速で仕上がってきたカレーには福神漬けが乗っていました。
俺は遠慮がちに「あの、福神漬け……」と申し出ました。おばちゃんは俺に言われてようやく思い出したらしいのですが、その段階では俺ももうどうでもいい気分になって「いや、いいです。うちの奥さんが食べます」と言ってカレーを引き取りました。背後でなんか言い訳してるのが聞こえたのですが、そういうのって聞こえると余計に腹立つから聞かないことにしました。なのにまゆみさんが全部聞いてきました。なんで! 聞く気なかったのに!
「あのおばちゃん、あんたがいなくなってからすごいこと言ってたよ。福神漬けいらないって言われるとかえって意識して乗せちゃうんだよねって。言われるから乗せちゃうんだよね、ってぶつぶつ言ってた」
俺がこの食堂の経営者なら、罰としておばちゃんにメイドさんの服着せて仕事させます。いややめました。だれに対する罰なのかよくわからないから。
ちなみにカレーの味なのですが、昨今絶滅しかけた立ち食いそばっぽい伝統的な安物カレーでした。カレー粉と小麦粉だけで構成されたカレーのなかにどうでもよさげににんじんのかけらが数個入ってて「肉どこ? ねえ肉どこ?」と泣きたくなるようなしょぼい具材。完璧です。でも俺はそういうのも嫌いではないのでふつうに完食です。ちなみにまゆみさんのカレーそばは、かけそばの上にカレーライス用のルーがそのままオン!という野性味あふれるもので、こういうカレーそばも昨今絶滅の危機に瀕しているのではないかと思うのです。保存しよう!なんて気にはまったくなりませんけど。
ちなみにまゆみさんはカレーそばとかカレーうどんとかをものすごく慎重に食べます。皮膚が極度に弱く、飛沫が皮膚についただけで荒れてしまうというもっともな理由はあるんですが、それにしても慎重です。あずまんが大王に出てくるアホの子が言ってた「危険よ!」の法則もまゆみさんには当てはまりません。

フェリーに乗り込んで最初にやることは、甲板に出てタバコ吸うことです。出航の瞬間を見届けるわけです。フェリーにはもう数回乗ってるんですが、船の観光客って、列車や飛行機のそれとくらべて体温が数度高い印象。なんだかバカにはしゃいでる人が多いです。あと写メ率異常に高い。ただでさえそんな状況なのに、今日は犬まで放し飼いになってました。おっさん二人連れがそれぞれ船の手すりにもたれてポーズをつけてる構図で写真を取り合ってるその横で子供が泣いています。かと思えばテーブルにいきなり幕の内弁当広げて食い始める老人二人。そして顔のつぶれた体毛のない、俺からすれば犬よりも豚に近いと思われる生き物が甲板全域を運動場と定めて、たらったらったったーとかそんな勢いで楽しげに散歩です。なんだよこのバカ空間。意味わかんねえ。
しかし船はいいです。やはり視界が広く確保されているというのはそれだけで気分のいいものです。そのうえ今日は春一番が吹いたあとの高気圧。冬型の気圧配置のせいで若干寒気が流れ込んでいるせいか、決して春のように、とはいえなかったかもしれないけれど、それでも日差しは春のもの。船を追いかけるようにして、鳩とスズメしか知らない俺にとっては未知の鳥が水面すれすれを滑空する。犬はあいかわらず絶好調です。犬うぜえよ、飼い主ちゃんとつないどけよ! むしろ飼い主をつなげ! 犬には「4WD」と落書きしてやる!

金谷からは国道127号線、465号線を経由して、とりあえず外房を目指すことにします。
しかしまー、来るたびに思うんですが、房総半島の僻地度というのはかなりのもんです。住んでる人は気を悪くするかもしれませんが、首都圏からそんなに離れていない場所で、これほど時代の変化の波を受けていない場所がそのまま残されているというのもすごい。商店街にしろ農家のたたずまいにしろ、少なくとも昭和をそのまま残しいてるのは確実。あとヘルメットで自転車通学の小学生。あと女子中学生がものすごいクラシックなセーラー服。しかもスカート丈が膝下10センチくらいある。その姿を見た俺は、思わず素直な感想を言いました。
「あの中学生まずいよね。コレクターとかに狩られる」
「あー、あれはまずいね」
まゆみさんはあたりまえのように相槌を打ちました。そのまゆみさんの視界をジャージ姿で自転車の女子中学生が横切ります。おまえ木星とかの高重力惑星で育ったのか、というくらい縦方向に圧縮されて横方向に広がってる感じの、ありていにいってズッギャーンゴゴゴゴゴズッバーンドォンドォンといった感じの体格の女の子です。
「あれは狩られないね」
「そうだね」
ものすごい失礼な会話をしながら、俺らは国道465号線を進みます。

4で始まる3ケタ国道にはありがちなことですが、とにかく道路としての統一性がまるでない。集落のなかをうねるように進むすれ違いのできない道路であったかと思うと、次の瞬間には片側2車線になって、森のなかをまるでリゾート目的で作られたかのように堂々と貫いています。快適だーと思って油断してるといつのまにか林道、悪くするとダートになってたりする。
この国道465号線も、部分的にはだれのために作られてるのかさっぱりわからないような状態。半島特有の錯綜した地形のなかをカーブに次ぐカーブ、アップダウンを繰り返しうねっています。道路の周囲には人家らしいものはまったく見当たらない。
小規模の山や谷が四方八方に好き勝手に乱立していて、その地表を背の低い潅木や冬枯れの木が申し訳程度に覆っている荒涼とした光景は、いつか走った下北半島のそれと本当によく似ていました。
やがて車は、当座の目的地、久留里に到着。

久留里の商店街は町並みマニアにとってはたまらない雰囲気です。まず商店街にBGMがかかってる。これものすごい高評価です。BGMがわけのわからないジャズ風のインストだったり、ましてやサンバっぽいものだったりしたらもう勃起ものです。しかも曲が途中で中断して、30年前からセリフまでがまったく変化していないような商店の広告でもかかったらもう言うことはないです。久留里ではそこまではやってませんでしたが。
古びた舗装の道路の両側に、化粧品店、衣料品店、金物屋など、生活に必要なひととおりの商店が並んでいます。かつて近隣の農村の人々が買出しに来る町だったころの面影を残したまま緩やかに斜陽していった町。住んでる人にとっては迷惑でしょうが、単なる通過者としてはこういう風情はたまりません。
最近じゃ、徒歩客相手の商店街というのは本当に成立しません。特に地方じゃ車での移動がメインですから、その地方でのメインの生活道路の両側に、駐車場が完備した大規模な店が立ち並ぶような、新しいかたちでの商店街が主流になります。規模が大きいとなると、それだけで個人商店ではノウハウが足りず、そこにチェーン店がなだれこんでくる。東京靴流通センター、しまむら、ダイソー、ユニクロ、イエローハット、そしてファミレス数件、ゲオかツタヤ、あるいはそれに類似の業態。コンビニが上下線それぞれに一つずつ。あとは車のディーラーと中古車屋、それにカーコンビニ倶楽部の一つでもあれば、車社会での商店街が成立します。最後にジャスコが外れたところにどかーんと進出してきて、地元の昔からの商店街は完全に死滅するわけです。
久留里はそれでも、町自体が抱えている商圏人口がそこそこあるせいか、まだ斜陽っぷりとしてはましなように見えました。

やがて車は外房へ。
すぐにでも海が見えるかと思ったんですが、なかなか見えてこないです。どうもこのへんでの幹線にあたる128号線が海沿いではないらしい。あと砂浜が多く残っていることが原因か、かなり分厚い防砂林のベルトがあって、海が見えません。
一瞬だけ、本当に一瞬だけ、対岸がまったくないただのだだっ広い海であるところの太平洋が視界に入ったのですが、次の瞬間ルート選択を誤ったらしく、海はまたたく間に消えました。
「いや、いいんだけどね。太平洋を見にきて、あれだけ? 一瞬?」
まゆみさんは原則車に乗ってさえいれば満足な人なので、それほど俺を責めはしませんでしたが、うるさいのはぽりんでした。ぽりんというのは、仮にぬいぐるみのかたちをとっている謎の生命体です。よくしゃべります。
「ぼくの太平洋は? ぼくの太平洋はどこですか?」
なぜ「ぼくの」と言い張るのかはわかりませんが、いちおーぽりんの主張にしたがって海辺を目指しなおすことにしました。長生村、白子町などを経て、海岸とは防砂林で隔てられた道路をしばらく直進。右折すれば海にぶつかるはずです。
おあつらえ向きな道が見つかったので、てきとーに右折。ガードをくぐってさらに直進すると、そこにとつぜん砂だらけの茫漠とした空間がありました。
砂浜かと思ったら、駐車場のようでした。すでに車が数台止まっていました。
そして、砂まみれの駐車場の向こうに砂浜が広がっていました。
砂浜の向こうに海がありました。
ばかげた広さで海が広がっていました。
神奈川で生活している俺にとって、砂浜といえば、コンクリートで固められた134号線の崖下で、いつ波に削られてもおかしくないようなわずかな面積でしがみついているものでした。それと比較すれば、この砂浜はまったくばかげていました。左右を見渡しても終わりがない砂浜の向こうで、海が地球の丸さで盛り上がっています。空は天空から海面に向けて階調をつけて純正の青からややくすんだ色へ。若干混じりはじめたオレンジ色が、もうじきやってくる夕暮れの先触れでした。そして近所でどこかの応援団が練習をしているらしく「おーーーーー」「おーーーーーー」と謎の野太い雄叫びが聞こえてきました。犬といい応援団といいまじ勘弁してください。一瞬だけ「やめろーーーーー」とか聞こえてきた気がするんですが、あれ応援じゃないよね、どう考えても。
ぽりんは車のなかからの見物となりましたが、大興奮でした。
「ぼくの太平洋だ。ご主人さま、ぼくの太平洋です!」
ぽりんはぬいぐるみのかたちをとった何者かなので、表情は変化しません。しかし喜んでいました。日本でも有数のいろんな景色を見たであろう、しゃべるぬいぐるみであるぽりんは、大喜びしました。

俺は思うのです。
俺とまゆみさんは、たぶん、ほかの多くの人たちがあまり経験したことのないようなやりかたで結びついています。特殊であれば人の理解を得ることは難しい。俺とまゆみさんのあいだにはほかの人間が介在していません。そして外部にも基本的にだれもいません。俺とまゆみさんは、それぞれが生きやすくあるように現在ある関係を構築しただけであって、だれかにそれを理解してほしいとは思っていないのです。俺らが生きやすくあるためには、自分たちが築いた空間のなかにだれかが入ってきては困るのです。だから俺とまゆみさんは、ただ二人だけで終わります。俺らが死んだら、あとにはなにも残りません。
まゆみさんの周囲のものたちは、実によくしゃべります。しゃべる以上、それらは存在します。生きています。もし俺が死んでも、あるいはまゆみさんが死んでも、ぽりんは俺らのことを記憶しています。ぽりんはそれを俺ら以外のだれにも伝えることはできません。もし俺らがこの世界からいなくなって、ぽりんだけがだれかの家に引き取られていったとします。そのとき、ぽりんの言葉を聞く人はだれもいません。それでもぽりんはおそらくしゃべっているのです。あんなことがあった、こんなことがあった。あのときぼくは太平洋を見た。新潟で雪を見た。ご主人さまの足はくさい。ピンク色の丸い物体であるおもしろい顔をしたところのぽりんは、無限に、あるいは永遠に記憶していてくれるのです。

目的は果たしたのであとは帰るだけです。
この帰り道がつらかったです。時間も厳しかったし、ほとんど全線高速を使って帰ってきました。なにしろ俺は徹夜明けでそのまま出かけてきたので、眠気はまだないにしても、目が疲れていました。
館山道にはサービスエリアがありました。市川だったかな。そこで俺はカレーライスを食べました。まゆみさんは醤油ラーメンを食べました。あとサービスエリアにロッテリアが併設されていたので、俺はストレートチーズバーガーを、まゆみさんはポテトを買いました。ポテトのタダ券をもらったんですけど、使う場所ないです。うちから最寄のロッテリアっていったいどこだ。

死ぬほどの集中力を発揮して、なんとか金谷に到着。フェリーでは客席には行かないで、車のなかで横になって寝てました。サンバーたんの後部座席はベッド仕様なので、客席なんかよりよっぽどゆっくり休めるのです。
そんで、家に帰ってきました。長かった。今日は長かった。あと11文字で6000文字なので余計な文章くっつけてやれ。文章も長かった。ここまで読んだ方、お疲れさまでした。感謝の気持ちを込めて、抽選で俺の使用済み靴下を差し上げます。ジップロックで完全密封した3年モノ。暗殺に、ジェノサイドに、集団自殺に最適な一品、いかがでしょうか。なお開封の際は戸外でお願いします。また風向きには細心の注意を払ってください。うっかり自分のほうに臭気が来てしまうと、死にます。

す、すみません。ものすごく後味の悪いラストに。

2007/06/26 14:36 カテゴリー: MK2がなんか書いた | 個別ページ | コメント (10) | トラックバック (0)

まゆみさんはふてくされた

スクランもなんか佳境に入ってきたなあとぜんぜん関係ない感慨から入ってみるMK2です。

まゆみさんのパソコンのスピーカーはUSB接続です。で、どういうパソコンの機嫌か知らないのですが、このUSBがものすごく調子が悪い。仮にパソコンを擬人化したとして、どうもUSBの端子は角質化したかかととかそういうのに当たってるんじゃないかと思います。アフリカの大地を踏みしめて育った女の子とかそんな感じだと思います。急に日本に連れてこられてはだしじゃだめだから、と言われて靴はかされてすごい不快なんです。きっと故郷のアフリカが恋しいと思う。
とにかく認識しないんです。たまに認識したかと思うと次のときには認識しない。そもそもフロントの端子は生きてるんですが、背面の端子が死んでしまいました。フロントだけでは数が足りないんで、ハブかましたんですが、ハブを経由するといままで認識していたものが認識しなくなる罠。

今日は、まゆみさんが先に家に帰って、俺があとから家に帰ったんですが、家に入った瞬間、まゆみさんがふてくされていました。
「あんたにもらったハブ使ったら、スピーカーが鳴らなくなった」
まるで俺がハブっぽいニセモノでも押し付けたかのような勢いです。おりしもまゆみさんはクラナドやってる真っ最中。エロゲの音楽はほとんど聞かないし、音声も必要ないという人ではあっても、なんぼなんでも音がまったく鳴らないというのは不快でしょう。とにかく解決しなければならない。まゆみさんは、ふだんほとんどなんの労力もなしに、たいていのことが人並みにできてしまう人なのですが、そのぶん「特に解決しなければ死んでしまうわけではない。さりとて解決しなければ不快」という問題に出くわしたとき、そしてその問題がまゆみさん自身の手に余るときの根気のなさは尋常ではないものがあります。具体的には、パソコンのハードの問題はそれに当たっていたのです。
「もういいよ。音なんか鳴らなくて」
とかまで言い出しました。早速解決しようと思ったのですが、問題がひとつありました。

俺の足がくさいのです。

またですか。そんな理由で、ふてくされている自分の奥さんに対してなんの対応もできないのですか俺は。いやしかしですね、実際問題として、これ解決するのにそこそこ時間はかかりそうだったんです。なにしろ原因を究明してそれを解決、という手続きを踏まなければなりません。そしてパソコンをふだんからいじってる人はご存知のとーり、パソコンのトラブルというのはまずなによりも原因の特定がめんどくさい。だからこそサポセン黙示録みたいなことが発生するんでしょうし。しかし長時間まゆみさんの部屋にいるとなると、足のくささの問題は避けて通れません。なにしろまゆみさんは、そのにおいによって喘息の発作を起こすのです。仮にまゆみさんが部屋から退去したとしても、残り香でアウトです。すみません食事中の人とかいたらまじすいません。でも、でもこれね、俺の足が最終兵器であるのも確かなんですけど、まゆみさんが過敏な体質だってのも当然あるんですよ? いくらなんでも俺が通っただけで「あのおじちゃんあしくさーい」とか子供に指さされるような、そういうレベルではありません。

というわけで、まゆみさんのパソコンの問題を解決すべく、俺はまず風呂に入りました。俺が風呂に入っている様子を描写しても、全人類のすべてが喜びませんので、このへんは省略します。しいて言うなら、俺は左腕から洗います。次は股間です。嘘です。
お風呂から上がったら、足のにおいを抑えるべく、全身をバラのオイルでマッサージです。嘘です。だから俺の風呂の描写などどうでもいいのだ。あ、いま思い出した。歯磨くの忘れてた。

まあそんなわけで、生まれ変わったMK2-NEOの俺は、無事にまゆみさんの部屋に入室できる条件が整いました。どんなだ。
風呂のなかで考えたんですが、USBのほうの問題は、おそらく箱をあけていろいろ見てみないとだめだと思ったのです。そこで、最初から現在の環境を修復するのは諦めて、以前俺が使っていた、ふつうのオーディオ出力から音を拾うアンプ内臓のスピーカーを接続することを考えました。
これで問題はあっさり解決。
肉体を器用に扱うことができない俺が、さんざんまゆみさんの机の周りのものを倒したり踏んだりと、まるで出来損ないの怪獣みたいなふるまいに及ぶというアクシデントはあったものの、無事スピーカーは鳴りました。でもどういうんだろ、あのUSBの調子の悪さは。

で、無事解決したので、店の賞味期限切れの小龍包を4個パック×4つ持ち帰っていたのを食い放題することにしました。まゆみさんは4個、俺は7個食ったところでダウン。そして12時間後のいま、俺はまだ胸焼けに苛まれています。これひどい。ほんっとひどい。
しかし紀文のチルドの小龍包はうまいです。

あとは、
http://homepage2.nifty.com/hokhog/
こんなの見て、正確な北海道アクセントで再現してまゆみさんを笑わせたりしました。というか俺自身唖然としました。俺は11歳まで函館で暮らしていたのですが、アクセントや発音での訛りはあっても、単語が違うというレベルではなかった、と現在までかたく信じ込んでいたのです。しかし、この辞書を見ると、見覚えのある単語、というか使っていた記憶のある単語が山のように出てきました。
具体的には「とてもかゆくて、掻いてしまった」というのを、11歳当時の俺は「なまらかいくてかっちゃいてまった」と言っていたはずです。「小銭が足りない、あと百円ちょうだい」というのを「じぇんこたんね、あどしゃぐえんけれ」と言っていたはずです。
通じるはずねえよ。

2007/06/26 14:36 カテゴリー: MK2がなんか書いた | 個別ページ | コメント (0) | トラックバック (0)

妄想まみれの一日

今日はまゆみさんがほとんど登場しません。なぜならMK2さんは、今日、珍しくひとりで行動していたからです。というのも、まゆみさんが絶対に行きたがらないところに行かなければならなかったから。

食品衛生管理責任者講習会。
だったかな。そんな名称の講習会に行かなければならなかったのです。いちおーまともに説明しておきますと、食品を扱うすべての業態は、各店舗に一名ずつ、衛生管理責任者というのを設置しなければなりません。この責任者の資格は、地方自治体が主催する上述の講習会に参加することで得られます。
「まゆみさん行きますか」
と聞いたところ、
「今後永久にシフトに出なくていいなら行く」
という、つまりおまえ死ね的な交換条件を出されたため、俺は泣く泣く一人で行くことにしたのです。もっとも俺がまゆみさんの立場ならば、やっぱり行くことは断固拒否したと思いますが。

そんなわけで、とぼとぼと一人で行って参りました。
講習会の内容なんですが、ひたすら食中毒についてです。毎年流行の食中毒も変わります。今年はご存知のとおり、ノロウィルスでした。講師の人はやっぱその道の専門家なので、お話は非常に含蓄に富んでいるものだったのですが(なのかもしれない)、しかし、たとえ食中毒の専門家であっても、人前で話すことの専門家というわけではありません。つまり、ありていにいって、非常に退屈なのです。
そんなことは毎年受講している俺にはあらかじめわかりきっていることだったので、ちゃんとヒマつぶし用の道具は持参しておりました。ノートとボールペン。これだけあれば充分です。なにしろ常日頃、質はともかく量だけは大量のテキストを垂れ流している俺です。文章を書くということはそれ自体が無上のヒマつぶしなのです。

講義が始まる前から、すでにノートとポールペン全開。ようし。完成しない小説のキャラクター設定表でも作ろう! いたたたた、俺中2? でもいいのヒマつぶしだもの。そう、いま季節は春。そうだ桜の木の精なんか作っちゃえ! 桜の木の精なのにどじっこ! 「うぁーん、まだ2月なのに咲いちゃいましたー。ごめんなさいー」とかあやまってんのな! なに俺マジ天才! このありえない設定!
もちろんありえないのは、36歳にもなってこんな設定を、授業中の中学生みたいに嬉々として作ってる俺自体なのですが、まあそんなことはいいです。
講義が始まったのも気づかないくらい集中しています。

しかし講義が始まって数分。俺のなかに異変が生じました。
講師はマイクを使って話しています。ものすごいぼそぼそとしたしゃべりかたなのですが、それがマイクによって大音量になって講義室全体に響きわたるのです。大音量のぼそぼそ声。そう滅多に聞けるものじゃありません。しかも吐息と鼻水をすする音が過剰に汚いのです。特に鼻水をすする音に関しては、ハウリング起こしそうなくらいに大きい。これが音声魔法なら、市役所全体が鼻水魔法の影響下にありそうなくらいです。どういう効果があるんだろうね、その魔法。
それだけならまだしも、この講習会、実質は「おまえのところ食中毒出したらつぶれるよ」という脅しのために存在しているわけです。ですから、具体的な食中毒の事例、なかでも近隣地域のそれとなると、講師も必死になって伝えようとする。しかし、ふだん大きな声を出しなれていないのか、そのくだりになると、いきなり声が裏返るのです。

「ぼそぼそぼそぼそ、(とつぜんヒートアップ)ボツリヌス菌による事例が(「ツ」が裏返っている。しかも同時にハウリング)キーン、ぼそぼそぼそ、(発狂)こ・の・ち・い・き・で・も!(ほぼすべての音が裏返っている)ぼそぼそぼそ、なので・す(裏返っている)」

おかしいです。こいつおかしい。
もともと集中力がそんなにあるほうではない俺は、いともたやすく講師の裏返りマジックに翻弄されます。これもある種の音声魔法です。あの裏返りのすさまじさを考えると、なんらかの禁呪である可能性すら考えられます。先住民の遺産っぽいやつです。
しかも、俺の中途半端な仕事に対する自覚が邪魔をします。実際のところ食中毒なんて出してしまったらたまらないわけで、ノロウィルスなんて単語が聞こえてくると、やっぱり気になってくるわけです。
気がつくと、ノートには桜の木の精の外見の設定に混じって「ノロウィルス」「サルモネラ」「死ぬとき毒素を発生」とか書いてあって、なんだかわからない状況になっています。しかもなんだかんだで結局眠いのです。ノートはカオスの度合をどんどん深めていきます。
「高熱でも殺菌できない」「擬人化」「ふしぎ探検隊」「あの子の胎内めぐりでナンマンダブ」「0-157たんは少数の菌でも発症してしまう、孤独な子」
さー、おかしくなってきました。混じってます。謎のミックスジュース状態です。俺の妄想がマーブルうんこ状態です。ごめん。俺だんだん幼児化してる。
そして最後にできた設定がこれです。

俺は悪のレジスタンス組織のボス。敵は食品衛生管理庁。
その世界では、食中毒こそがもっとも恐れられる病。俺はそれをテロリズムに利用する。その社会では、食中毒菌をあらかじめ持っているにもかかわらず、症状が顕在化しないタイプの人間(なぜか女の子に多い)は、迫害され東京郊外のスラム街に追いやられている。俺の仕事はその女の子たちのなかから、特に感染力の強い菌を保有している女の子をスカウトして、立派な病原体とすること。
で、具体的にはなんかスモールライトみたいのでちっちゃくなって、潜水艦みたいなのに乗ってほかの人間の体内に潜入! トレーニングを積んだ女の子のかめはめ波みたいなので、胃とか腸とか攻撃!
女の子は、保持している菌により、ある程度パーソナリティも影響を受ける。たとえばノロウィルスたんだと、死ぬに死ねない頑丈な体を持っている。しかも少数の菌で発症してしまうので、どうしても孤独癖がある。
「私、死にたいと思った。でも、何度やってもだめだった! まわりの子たちがみんな倒れていく。でも私だけ、ずっと生きてる。……ずっと、ずっと、一人だけ生きてる……」
腸炎ビブリオたんだと、熱に弱い。
「うー。今日は気温が25度もあるからおしごとできませんー。えーあーこーんーえーあーこーんー」
ウェルシュたんだと、崩壊するときに毒素を放出して、また本体も芽胞化しちゃったりする。
「っくしゅ。……あ、またくしゃみしちゃった」
くしゃみしたときそばにいた人間、みんな食中毒。おっかねー。
しかもすねると、芽胞つくって引きこもり。
「いーかげんにしろウェルシュ! この芽胞どうにかしろ! せめて通路のまんなかで引きこもるのはやめろって!」
「いーもん。どうせ私なんて。いらない子だもん」
「いらない子でもいいから邪魔すんな!」
「どうせ死ぬなら、まわりもまきぞえにしてやるーっ!」

……講義の2時間はなんだかわからないうちに終わりました。
ようやく解放されて外に出ました。冬というにはやややわらかい空気が俺を包みました。学校帰りの中学生たちが、ふざけあいながら俺の横を通り過ぎていきます。
俺は大きく伸びをしながら思いました。
「……いったいなにやってたんだ、俺」


そのあとは、最近運動不足だったこともあって、ふだんちょっと歩かないような距離を歩いてみようと思いました。具体的には電車の駅ひとつぶんくらい。
郊外の私鉄駅にありがちな感じで、駅のすぐそばまで新興住宅街、つまりまゆみさんの嫌いなニュータウンが迫っています。俺は特にルートを決めずに歩き出しました。
似たような屋根。似たようなファサード。きれいなコンクリート。
すり鉢のような地形のなかにびっしりと並ぶ家。
坂を下って底にたどり着き、またすり鉢のへりをのぼります。
メインの道路からあえて外れて、わき道へ、そしてわき道から派生する階段をのぼりました。100段近くはある階段を、運動不足の肉体を引きずってよろよろとのぼります。半ばくらいでさすがに力尽きました。
休憩がてら一服。
石段に座って、いまのぼってきた景色を振り返ります。
すり鉢の全体を見渡すことができました。
昨日までは穏やかな陽気でしたが、今日はやや冷えています。とはいっても、2月という時期を考えれば充分にあたたかいほうでしょう。空には刷毛でてきとうに塗りこめたような薄い雲が幾層にも重なっていて、雲の上の日差しはぼんやりとしたかたちでしか地上に届きません。
その曇り空の下で、ニュータウンは死んだ静物のようにたたずんでいました。

あー、ここにも「暮らし」はあるな。

俺はぼんやりと思いました。「死んだ静物のよう」という表現とはかみ合いませんが、俺はそう思ったのです。ここで生まれ育った子供にとっては、この光景がふるさと。学校に行く途中、この石段をのぼる子供は、週に一度くらいは、なんとなく途中で振り返って、いま俺が見ているのと同じ景色を眺めるのかもしれない。俺にとって雑駁な市営団地の光景がある種の原風景であるように、その子供たちにとっては、この嘘くさいまでに整った無個性な家の数々がふるさとの光景なのだろう。
別に、だからどうということはないのです。
ただそう感じただけです。感じる、ということは、一面で「見えないものを見る」ということなのかもしれません。別にまゆみさんは残念でもなんでもないでしょうが、俺がいま見ている現実のニュータウンの家並みのなかに、俺が「見ている」幻想の人間たちの息吹のようなもの。それを見せてあげたいと思いました。

そのあと、駅まで、死ぬ思いでなんとか到達しました。
駅に着いてまゆみさんに電話をしました。
「まゆみさん、大変です。俺の36歳の肉体は、徒歩40分に耐えられません。無謀な試みだったのでしょうか」
「あんたバカだろ」
終わりました。

ま、まゆみさん、歩くことには、た、たぶん、価値があるのです。
俺は、あの、そう思うのです。

2007/06/26 14:35 カテゴリー: MK2がなんか書いた | 個別ページ | コメント (0) | トラックバック (0)

まゆみさんはニュータウンを嫌う

最近、あまり文章を書くペースが早くないMK2です。しかもあんまりおもしろくない。
ひょっとしてこれスランプってやつでしょうか。憧れてたんですよ。スランプ。なったことないから。深刻なスランプ起こすほど力を入れて文章を書いたことがない、という話もありますが。しかもなってみると気分悪いですね。
なので、淡々と事実を報告したようなふつーのテキストが続くかと思いますが、見捨てずにお付き合いいただければ幸いです。


そんなわけで、俺とまゆみさんは、おいしいコーヒーを求めて、神奈川県の外れの半島の先端から、ほとんど東京である神奈川県の外れまで車で行ってきました。

で、いろいろ考えたんですけど、向こうも商売である以上、だれかが宣伝するぶんには問題ないかなーと思って、店の名前と所在地出しちゃいます。よみうりランド駅前にある加藤珈琲店という喫茶店です。
以前、そのお店のすぐ近くで友人がコンビニをやっていまして、俺はその手伝いによく行ってたんです。立ち上げの段階ではだれもが素人です。そして俺は経験者で、しかもそのころフリーター(というかわずかばかりの退職金でなにもせずに遊んでたという、よりタチの悪い物体)だったので。
俺はほとんど無給でかまわないと言っていたのですが、友人としてはそうはいかん、ということでちゃんとお給料くれてました。義理堅い人です。
妹に連れられて行った二俣川駅近辺の喫茶店については、俺としては外れっぽかったので、その雪辱戦というわけじゃないですが、時間を作って無理やりに行ってきたのです。

不安はありました。前に加藤珈琲店に行ったのは、かれこれ10年前になります。そのあいだ俺もいろいろコーヒーを飲んでいたし、なにより記憶というのは美化されがちです。さらにはコーヒーっていうのは強度に嗜好品であるだけあって、場の雰囲気とかそういうものを総合的に含めて判断されがちです。あのころ喫茶店で読んでいた本はスレイヤーズだったなあ、そういや同居人はアメリアが好きだったなあ、いや、どっちかっていうとあれは鈴木真仁が好きなんであって、アメリアのほうはあとづけかなあとかそういう、事実に関する記憶っていうのは美化のしようがないですが、味覚とか、雰囲気とか、そういうのは記憶としても曖昧な領域に属すると思うのです。

途中、ありえないわき道開発に失敗して意味もわからずニュータウンのなかをぐるぐるしながら、目的地に着いたのはもう昼過ぎでした。だいたい4時間かけて神奈川県を横断したことになります。横横使ってこの時間のかかりかたはちょっと異常です。しかもまゆみさんはニュータウンが嫌いなのです。ふつうニュータウンなんてものに対して好悪の感情を持つのはちょっと変態、いやまちがえました、珍しいと思うのですが、まゆみさんのよくわからない明晰な頭脳は、ニュータウンというものの設計思想、そこに住まう人々の趣味嗜好までをガラス張りに見抜いて、そうしたものにまゆみさんは「好き嫌い」を持つのです。それを言葉にすると「こじゃれてんじゃねえよ」ということになります。まゆみさんの目には「ステータス」というものが見えません。また機能性以外のデザインに対する欲求というのがよくわかりません。それらはすべて「不純」だとまゆみさんは判断するのです。おまえは柳宗悦か、とほとんどだれにもわからないであろうどうでもいいツッコミを入れたくなる気分です。
それがまゆみさんの美意識にもとづいた単なる趣味であり、まゆみさんの内部に深く沈潜し、まゆみさんという人格をかたちづくる要素のひとつの声なき声として機能している限り、俺は別に反対も賛成もしないのですが、まゆみさんはニュータウンをぐるぐると回っているうちにだんだん不機嫌になってくるのです。ありえません。ニュータウンの景観で不機嫌になる人。聞いたこともないです。
とりあえず俺は話題を探そうと、てきとーに話しかけます。
「ま、まゆみさん。あれがきっと、いまはやりの隠れ家系のカフェとかですよ、ほら!」
ニュータウンだのステータスだの雰囲気だの、そういうものを理解しない人にそんな話題を振ってどうしようというのでしょう俺は。食い物は人の生命を養うためにあるのであり、過剰に金をかけることはたぶん悪徳だと思ってるに違いない人にです。
案の定、まゆみさんは言いました。いや、まゆみさんに言わすと、いま車に一緒に乗っているうさぎのぬかづけちゃんが言っているらしいのですが、
「隠れ家なんてそんな、堂々と表通りで商売できないようなものをおまえのところは出してるのかー。商売は堂々とやれー。隠れるなー。なんで隠れるんだー」
涙が出そうなほど、そういう問題ではありません。だいたいそれはクレーマーの論理です。

そんなこんなで苦労を重ねて、ようやく到着したよみうりランド駅。
てきとーに駐車場を見つけて駐車。
よみうりランド駅近辺はちょっと変わった構造をしています。たぶん駅の背後まで山が迫っているせいでしょうが、都市機能に当たるものが駅前にぐちゃぐちゃと集合しているのです。また、私鉄の古い駅にありがちなんですが、駅のすぐそばまで住宅地が迫っている。俺はこういう、およそ都市計画と無縁な町というのが大好物です。
「まゆみさん、喫茶店に行く前にちょっと散歩していこう」
「なんで?」
「それはほら、散策というか。目的もなくぶらぶらと歩きまわって、町を眺めるのって楽しいから」
「私、目的もなくぶらぶら歩いたりするのが嫌いなんだけど」
「散歩とか……ね?」
「散歩ってなんでするの? 意味わかんないんだけど。てゆうか歩くの嫌い。散歩に付き合ってほしければ、もう少し策を練りな」
すごいです。利害が真っ向から対立しています。
まゆみさんに言わすと、25歳くらいまで、毎年のように神戸を訪れて、ただ丸一日歩いて帰ってくるだけ、という行動を繰り返していた俺のほうが変態ということになるでしょう。

結局散歩はせずに、目的の加藤珈琲店に行きました。
内装はいい感じに古びていました。カウンターの背後の壁一面を占拠している無数のコーヒーカップも記憶どおりです。いちおー好みのカップを指定できるらしいですが、マスターはそんなことはなにも言いませんでした。
客は俺らだけでした。それで無言というのもちょっと気まずいです。
まゆみさんのコーヒーに関する嗜好をネタにマスターに話しかけます。
「こちらのブレンドはどうなんでしょう。妻がね、酸味がだめらしいんですよ。それで、どこに行ってもブレンドが飲めなくて、マンデリンばっかり飲んでるんですけど」
「それならね、ビターブレンドというのがありますから。マンデリンも酸味は少ないですけれども、残りのほうはね、どうしても酸味が出ますから。ビターブレンドなら、アイスにしても酸味が出ないくらいですから、問題ないと思いますよ」
ああ、こうやってコーヒーについてするすると答えてくれる喫茶店のマスターっていま少ないよなあ……。まあその人も言ってましたけど「飲み歩きをする人も少なければ、それに応える喫茶店のほうも少ない」と。ドトールやスタバなどもたくさんあるし「なんとなく間に合ってしまうんでしょうねえ」とのこと。
というわけで、俺はオリジナルブレンドを、まゆみさんはビターブレンドを註文。
基本的にこうした個人商店の店が苦手な俺とまゆみさんにとっては気まずい待ち時間。
やることもなくて、マスターの手元を見ると、プラスチック製っぽいどうでもいいサーバーに、どこにでも売ってそうなフィルターで、てきとーに淹れてるように見える。
そしてようやく出てきた一品。

ものの味について解説する語彙を俺はあんまり豊富に持っていないので、説明するのは難しいです。なのでまず、この喫茶店のコーヒーが、ケタ違いにうまかった、ということを先に言っておきます。コーヒーというのは嗜好品なので、それを好む人の数だけ価値観があるといってもいいと思うんですが、それでも客観的な指標というのはある程度存在すると思うんです。
まずコーヒーというのは、なにはさておき香りです。飲む前に香りを確認します。そのときに……これはどうやって説明したらいいのか本格的にわからないんですが、本当にいい香りを出すコーヒーというのは、コーヒーからまっすぐに香りがたちのぼって、すーっとなんの違和感もなく入ってくるんです。作りものでない、本当のコーヒーの香りです。
そして味。その喫茶店のコーヒーの持ち味というのは、ブレンドです。マスターの趣味にしたがって、各種の豆をブレンドして「この味がおいしいと思う」と提示してくれるのがブレンドです。バランスのとれたおいしさを作ることもできますが、てきとーに安い豆を使っていたりすると、どうしても雑味みたいなのが出てきます。クリアじゃないんです。これは特にコーヒーが好きじゃない人でも、質の悪いブレンドと、大して腕のよくない人が淹れたストレートを比較すればわかると思うんですが、たとえ腕がよくなくても、ストレートのコーヒーにはクリアさがあります。そこでストレートしか飲まない、という人も出てくるんですが。
ところがこの加藤珈琲店のブレンド。俺が飲んだのは「バランスのとれた味わい」というオリジナルブレンド。どっちかっていうと酸味は控えめの仕上がりなんですが、コクがあるのに、まったく雑味がないんです。なんていうんだろう。コーヒーってお茶の一種なんじゃないか、と思うくらいに。酸味も、てきとーなコーヒーの酸味っていうのは即後味の悪さにつながるんですが、本来は口に含んだ瞬間の奥行きみたいなものを出すために不可欠なものだと思うんです。そういう意味での豊かな酸味。
ドトールのブレンドって、バランスがよくて、そんなに嫌味もなくて値段のわりにはおいしいと思うんですよ。でも、このブレンドと比較すると「コーヒー風の飲料」としか思えなくなる。なにか「加工してこの味を出しました」という雰囲気がどうしてもするんです。
まゆみさんのビターブレンドも飲ませてもらったんですが、こちらも完璧でした。酸味はきれいにカットしてあるんですが、かといって苦味が尖っているわけでもなく、単に「コーヒーのおいしさ」としての苦味がきれいに出ていて、しかも酸味がないぶん、後味が非常にすっきりしている。
とにかく、呆れるほどおいしかったです。
まあ、個人商店であるがゆえの居心地の悪さみたいなのはありますが、それは常連になってしまえばどうということもないものです。てゆうか俺らがチェーン店に慣れすぎ。

そんなわけで、おすすめです。加藤珈琲店。
月に一度は行こうと思います。
あ、ちなみに行ける場所に住んでる方、行こうと思う方に一言。もし「あんまりコーヒーには詳しくないけど、おいしいのなら飲んでみたい」というのであれば、余計な知識は披露しないほうがいいです。相手はプロですから。オリジナルのブレンドを註文して、その味を基準に考えたほうがいい。家系の味濃いめ油多めとかと同じですね。もしコーヒーに対する明確な嗜好があるのであれば、それをマスターに伝えれば、それにあったコーヒーを薦めてくれるはずです。
で、できればブラックで味わうことをおすすめします。

帰りがけはニトリに寄って、サンバーたんの後部座席(というか俺らの居間)に敷くマットレスを買いました。ちょっと前に、サンバーたんでちょっと長めに熟睡したとき、まゆみさんがかなりひどい腰痛を起こしてしまったので、その対策として。
サンバーたんの部屋化がいっそう進みました。
あとは、相模原のジャスコで惣菜買って食いました。いつもどーりです。

2007/06/26 14:34 カテゴリー: MK2がなんか書いた | 個別ページ | コメント (0) | トラックバック (0)

まゆみさんと「コーヒー」

長いこと更新が止まっておりましたMK2です。なんで更新が止っていたかというと、なんかやる気なかったからです。そのあいだにやったことというと、ドライブとか仕事とかです。やる気ないままだらだらと書いてみます。

まゆみさんは最近コーヒーが飲めるようになりました。以前はジョージアのロング缶ですら「苦い」といって飲めないというありえない味覚を有していたものです。それが俺につきあってあちこちでコーヒーを飲まされているうちに、なんとなくガムシロとか砂糖の量が減ってきて、最終的にブラックで飲むようになりました。俺が思うに、コーヒーというのはブラックで飲んで初めて「おいしい」と感じるものではないのでしょうか。少なくとも「コーヒーそのもの」を楽しむためには、ブラックであることは必須条件のような気がします。もしブラックで飲んでおいしいと感じないのであれば、つまりそれはコーヒーという飲み物が本質的には好きではないということを意味するのではないか、と思うのです。
ちなみにこう書いたからといって、まゆみさんがいきなり「これはどうも焙煎が浅いねえ」とかゆうようなマニアになったわけではありません。数ある飲み物のうちコーヒーは比較的おいしく飲める飲み物である、というだけのことです。

しかしここで問題になるのは、俺が元来コーヒーのマニアであるということです。まゆみさんはマニアである俺が「おいしい」と認定したコーヒーばかりを飲んでいることになります。また、まゆみさんの嗜好をよく聞いて、あらかじめまゆみさんが「おいしい」と感じそうなコーヒーばかりをチョイスしたうえで与えていることになります。まゆみさんのなかではコーヒーは「そういうもの」という認識があらかじめできています。したがって、チェーン店のなかでは比較的バランスがとれていてまあ飲めないことはないな、と思えるドトールのブレンドでも、淹れてから時間が経過してしまったものについては、鋭敏に「おいしくない」と判断するような結果になってしまいます。コーヒーに関して、あらかじめクソ贅沢なまゆみさんになってしまったのです。
しかもなおタチの悪いことに、うちの近所には「Poem」という、名前だけ聞くと、70年代の陸奥A子のマンガの主人公がうかつにたしなんでる趣味みたいなおとめちっくな感じの喫茶店があるんですが、ここがうまいんですよ。おそろしくうまいの。長年あちこちでコーヒーを飲み歩いてる俺でも、ここよりおいしいところはちょっと思いつかない。そして、俺とまゆみさんが日常的にコーヒーを飲んでいるのは、その喫茶店なのです。

というわけで、ここのところの俺の使命は、あらかじめコーヒー的にクソ贅沢であるまゆみさんに、Poem以上のコーヒーを飲ませる、ということです。しかし悲しいかな、俺には喫茶店に関する知識があまりありません。そこで、珈琲館という喫茶店でパートをしている妹に電話をかけて聞いてみることにしました。
ちなみに俺の妹は、ちょっと特殊なキャラクターをしています。とにかく無愛想で、しかも攻撃的です。スキあらばなんにでも噛みつく、というまるで狂犬のような31歳既婚の妹です。

「あー、もしもし、あんたが知ってるおいしい喫茶店ってある?」
「うち」
「いや、そりゃそうだろうけど。そうじゃなくて。てゆうか、○○の珈琲館、あんまりおいしくなかったよ」
「あそう。うちじゃないとこがまずくたっていいよ別に」
「で、知らないの? おいしいコーヒー屋」
「知ってる」
「どこ?」
「二俣川」
「連れてってもらえるか」
「パート終わったころに迎えに来い」
そこでとつぜん、電車の発車ベルのようなものがケータイ越しに鳴り響く。すごいうるさい。
「あんたいまどこにいるの?」
「駅」
「いやだから、そうじゃなくて……どこの駅よ」
「二俣川」
「話してて平気なのか?」
「平気じゃない。切る」

一方的にケータイはブチ切られました。
とにかくおそろしく殺伐とした会話なのです。
ちなみに、どちらかというと人見知りが強く、知らない人には容易に慣れないまゆみさんなのですが、なぜかうちの妹とはそんなに相性が悪くなく、一緒に出かけることをいやがりません。
ちなみに妹が狂犬ならば、うちのお母さまは口癖が「死ね」とかそういう感じの人です。「私の死ね、には愛情がこもってるんだよ」などとよく言っていますが、いかなるかたちでも「死ね」に愛情が含まれることは不可能だと俺は思うのです。ちなみにまゆみさんは、うちのお母さまには絶対に近寄りません。「あれは危険なものだ。近寄ったらなにをされるかわからない」と常々言っています。一般的な「嫁が姑を厭う」というレベルの話ではなく、なにか本能的な危険を感じ取っているようです。

そんなわけで、金曜日、二俣川までコーヒーを飲みに行ってきました。
結果からいうと、残念ながら、期待していたほどの味ではあまりせんでした。好みの問題でしょうが、俺は炭焼がそんなに好きではなく、またもともとエスプレッソ大好きの人なので、薄いコーヒーはそんなに得意ではないのです。
ちなみにまゆみさんは、コーヒーの酸味というものが極端にだめな人で、いろいろ試した結果、どうやらマンデリンしか飲めないということが判明しました。喫茶店って、店によっては初めて来た客がブレンド以外のものを頼むといやな顔をするところもありますね。まあ、ブレンドこそがその店の個性といえないこともないですが、たいていのブレンドは酸味、苦味、そして香りとコクのバランスをとってきますから、まゆみさんにとってはその時点で「飲めないもの」になってしまうのです。

そうだ。もし、おいしいコーヒーを出す店について知ってる方がいらっしゃったら、なんか書いていただければありがたいです。意外にネットでそういう情報、引っかからないんですよね。なぜか。ちなみに妹曰く、新宿の椿屋珈琲店はおいしかったそうですが、
「ブレンドで800円出してまずかったら暴れるよ」
とか言ってました。
ちなみに、スタバは喫煙者の敵です。スタバを見かけるたびに中指を立てる俺です。

なんかひさしぶりに文章を書いたら、書きかたがよくわからなくなってました。

2007/06/26 14:33 カテゴリー: MK2がなんか書いた | 個別ページ | コメント (0) | トラックバック (0)

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