あまりに長くなったんで、二分割です……。
どういう長さだ。もう削るのもめんどくせえ。
あ、ちなみに「1」のほうは、俺の痛々しい自己紹介が続くだけですんで、そういうの嫌いな人は飛ばして「2」のほうから読んでください。たぶんそれだけでも意味通じます。この「萌え」という問題についてはどうしても個人的な視点からしか書けないので、あえて自己紹介も入れてみただけです。論拠ってものも示せないし、だとしたら「こういう生活環境の人がこういう思考になりやすい」っていうだけでも根拠示せなきゃなーとか思って。
<a href="http://blog.goo.ne.jp/munimunigyafun/e/1f1b46ae17a0cdc6e8bafc30ce6df330">「萌えとか 2」</a>
当事者(だった)人にはうまく語れないんだろうなあと思いつつ、いちおー自分なりにまとめてみることにする。なんかあれだけコメントが伸びると、書き込んでいいものかどうか迷うし。もっとも、おおむねのところでトラックバック先のナツさんの言うことに賛同なわけなんですが、視点というか、組み立てかたはだいぶ違うと思う。
まず俺のスタンスというか来歴というか、この問題に対する立ち位置をはっきりさせておきます。このブログを読んでる方のうちかなりの部分の方がご存知のことでしょうから、わずらわしい人はてきとーにすっ飛ばしてください。あくまで俺のこと知らない人のための、論じる人の立ち位置の確認です。というのも俺は強度に主観的な人間で、論という感じで物事を一般化できないので、あらかじめバイアスかかってることを宣言しておくのが筋だと思うからです。あと「萌え」とかゆっても、俺の考えてるそれが世間で通用してるものと大きく違う可能性は高いです。これも当事者ゆえのズレでしょう。
俺は小学校4年生くらいから、一種のコミュニケーション障害みたいな人でした。小学校高学年から中学校あたりは学校生活の記憶というものがあんまりありません。修学旅行には行ったはずなんですが、そのへんの記憶がほとんどないです。事実の断片としては記憶してるんですが、連続した記憶がないんです。およそ友人と呼べるものもまったくいなかった。高校に関しても似たようなもので、ただこのときは少ないながらも友人がいたので、その周辺の記憶は比較的しっかりしてます。ただ、やっぱり日常的にどんな感じで学校で過ごしていたのかとか、学校の先生だとか、行事の記憶はほとんど曖昧です。たぶんなんかの病名がつく感じの人なんですが、俺は自分が「そういうもの」であることは完全に自分のせいだと判断していたし、また「病気」な感じの人は、外界の認識にそもそも狂いがあるのであって、たとえば俺が見る東京タワーと、ほかの人が見る東京タワーに、認識という点において大した齟齬がない以上、俺は限度は超えてない、だから病気じゃない、と判断してました。もっともこのへんでなんらかの対策を打ってれば、後に離人症っぽいことにならずに済んだのかもしれないんですけど。
じゃあ中学高校となにをやってたのかというと、ひたすら小説とかマンガを読んでました。その記憶のほうは驚くほど鮮明で、モノによってはいまでもセリフまで思い出せます。ちなみに読むマンガのほとんどは少女マンガでした。
これは俺の成育環境に原因があるんですけど、30年前の金で300万円の借金を残して父親がとつぜん死にまして、俺は6歳のときから母子家庭で育ちました。確かにまあそのプレッシャーというのは相当のものだったと思うわけですけど、それまで専業主婦やってのうのうと暮らしていた人が、今日からは300万の借金を背負って外で働くわけです。そしてそのことによるストレスというのがすべて俺に降りかかってきました。具体的には暴力(これは大したことなかったと思います。傷痕が残るレベルまでは行ってない)、育児放棄(これはたまにありました。唐突に一日帰ってこないとか)などです。このへんのことを書くといつも気分が悪くなるわけですが、それでも俺にとって森羅万象はネタなんでとりあえず書くわけですけど。
ただ、俺が成長する過程で決定的に悪影響があったのは、たぶん母親の男への依存体質と、そうした自分自身に対する深刻な嫌悪です。それは男性という存在全体への憎悪というかたちで表現されていました。にもかかわらずどうしようもない男好き。また、借金を返すうえで俺(妹もいました)という子供の存在が重荷だったのは確かだったようで、そこに愛情がなかったわけではないと思うんですが、同時に「おまえさえいなければ」という発言はたびたびありました。
さらにねじれていたのは、このへんのことがすべてごっちゃになって「おまえが男であることは悪いことだ」という方向で俺をたびたび攻撃したことです。俺は「おまえが男でさえなければ無条件で受け入れてやれたのに」という無理難題を押し付けられました。まあ実質受け入れられてないも一緒なんですけど。
また、もうひとつ厄介だったのは、母親は俺のことを完全に所有物とみなしていて「おまえの生殺与奪のすべては自分が握っている」という態度を常に見せたことです。つまり「逆らえれば捨てる」ということです。「おまえ自身の考えていることを捨てて、私にしたがえば、おまえを受け入れてやる」ということなんですが、この裏側に「しかし男だから受け入れられない」というのが常に見え隠れしています。
あともうひとつの要因としては、母親は上述のように悪い意味で男好きの人でしたので、たびたび不倫騒動を起こしていました。で、その相手の男の妻という人からたびたび電話がかかってくるのです。そのうちの一人は相当に悪質で、母親ではなく子供の俺しかいない時間帯を狙って必ず攻撃してくる、というような状況です。いまにして考えれば、これは手段としてかなり有効だったと思うんですが、相手も予想外だったと思われるのは、俺が母親にそのことを報告しても「それは相手が異常なんだから放っておきなさい」ということで、まったく取り合わなかったことです。ちなみにその女の人の言うことは主に「おまえの母親は最低の人間だ。売女だ」などでした。俺はその内容を母親にははっきりと伝えませんでしたが、まあ子供心になんとなくわかっていたんでしょう。伝えるべきことでもない、と。
まあ、そんなような前提となる状況があって、俺は小学校4年生くらいには「この世界には信じられるものはなにもない」と思うようになっていました。ああ、ひとつだけ信じられるものがありました。金です。金さえあればどうにかなると思いました。自分がどんな人間であろうと、それは相手が自分を受け入れることとはまったく無関係だと思っていて、ただ金だけは絶対の価値があって、もし自分がそれを持っていれば、たぶんだれかは金目当てに日々のごはんくらいはくれるんじゃないか、と思っていたわけです。
それで、ある日、決定打となる出来事がありました。
ある日、家に帰るとだれもいません。母親はごくふつうに仕事でしたし、妹を保育園に迎えに行くのは自分の仕事だったので、そのこと自体は別に驚くことではないです。しかし、保育園に妹を迎えに行っても、妹はすでに母親が迎えに行ったあとでした。それで俺は家に帰ったのですが、夜になってもだれも帰ってきません。あとになってわかったんですが、このとき母親は、電車で5時間くらいかかる場所に、泊りがけでコンサートを見に行っていたらしいです。
それがどの季節のことだったのかは覚えてないんですが、確かストーブは必要じゃない季節だった気がします。この夜に、俺は自分はこの世界から見捨てられた人間だということを知りました。暗くなったら電気をつけなければならないんですが、電気をつけに行くために立ち上がることすら恐ろしかった。動いたらその瞬間、暗闇に潜んでいたものが襲い掛かってきて俺を殺そうとするのではないか、と思えたからです。その恐怖から逃れるために、たまたま手近にあった本を読みました。恐怖を忘れるために自分のすべてをそこに放り込んで読みました。それまでも本を読むのは好きだったし、マンガも好きだったんですが、俺が異常なのめりこみかたを示すようになったのは、たぶんこのときからです。俺は「この世界に幸福なことはない。ただ、フィクションのなかにだけある」と思うようになりました。
すぐに俺の読書傾向は少女マンガ一辺倒になりました。ここにはかなり倒錯した欲求があったと思うんですが、少なくとも少女マンガを読んでそこに感情移入している限りは、俺は親が望むとおりの「男ではないもの」になることができました。こうして俺は、素敵に男性性の獲得に大失敗☆ フィクションにのめりこむ一方だったので、まともな人間関係の構築方法の習得にも大失敗☆ 中学生のころ、一度だけ周囲の景色が見えたことがあるんですが、そのとき「あれ? なんかみんな俺にはよくわからない行動原理で動いてる」とか思ってびっくりした記憶があります。そのとき「わかんないからいいや」と思ってまたフィクションの世界に戻っていってしまいました。それどないやねん。
さらにここからが笑えるんですが、俺はこの状況をなんと28歳だったか29歳くらいまで引っ張りました。ありえません。24歳だか25歳くらいのとき、ちょっと自分を取り巻く世界とか人間のすべてが、まるでなにかに動かされてる人形のように見えてきて、それと関係している自分もまただれかから動かされているような気がして、フィクションを摂取してる自分だけがリアルだった時期があったんですが、そこからあとは、なかば自覚的に「俺はフィクションに生きて、そのままだれとも関係を結ばずに野たれ死にするから」とか思うようになりました。
友人はかろうじていたんですが、当然ながらそんな状況では男女交際など望むべくもありません。俺は友情も愛情もすべてフィクションのなかに見出すしかなかったんですが、そんな状況のなかで出会ったのがエロゲでした。
エロゲっていうと、抜き目的のために作られてるかのように思う人が多いかと思うんですが、ある時期から以降、エロゲの一部は擬似恋愛装置として機能しはじめていたと思います。俺はその流れに乗った人のひとりでした。ここから先は以前の「づしの森」というサイトをご存知の方には話す必要もないと思いますが、いちおー解説しておきますと、俺は、フィクションのキャラクターにマジ恋愛をしてはそれがかなえられないことに絶望するというおもしろスパイラルを繰り返し、その様子をテキストにて逐次報告するという、ふつうあんまりやんないような裸踊りを繰り返し、「AIR」というゲームの神尾観鈴というキャラに出会ってそのスパイラルが最大の振幅を示したそのあとで「ああ、やっぱりフィクションのキャラクターは俺を救わないなあ」という、まるでサンタさんはこの世のどこにもいないんだ、と悟ってがっかりした5歳児のような結論に到達したわけです。なんでそんなおもしろい人生を送ったのかは自分でも謎ですが、謎っていうかそこまでだれもなにも教えてくれなかったし、自分でも学ぶ気がなかったっていうそれだけの話のような気もしますけど。さらにそのことをまったく後悔していない自分に拍手を起こりたくなります。エヴァのラストの「おめでとう」くらいの感じで。
SM 出会い
投稿情報: SM 出会い | 2010/06/22 16:17
不倫
投稿情報: 不倫 | 2010/06/22 16:17
不倫
投稿情報: 不倫 | 2010/06/22 16:18
オマンコ
投稿情報: オマンコ | 2010/06/22 16:18
逆援助交際
投稿情報: 逆援助交際 | 2010/06/22 16:19
逆援助交際
投稿情報: 逆援助交際 | 2010/06/22 16:19
精液
投稿情報: 精液 | 2010/06/22 16:20
パンティー
投稿情報: パンティー | 2010/06/22 16:20
ザーメン
投稿情報: ザーメン | 2010/06/22 16:21
クンニ
投稿情報: クンニ | 2010/06/22 16:21