下から続いてます。あまりに長いのでひとつの記事におさまらなくて、二つに分けた……。前にもあったよね、こんなこと。
まあそんなわけで、そういう人が「萌え」について考えるわけです。
当事者であるということは、どうしても自分の背景について考えてないわけにはいかないので、あえて上記のような長文の痛々しい自己紹介をしてみました。
ここからいきなり専門用語が増えます。解説するのだるいんで、てきとーにぐぐってください。
萌えという言葉を俺の周辺で聞くようには、たぶん1990年代半ばくらいだと思うんですが、当初はごくごく軽い意味でのフィクションのキャラクターへの「かわいー、でもここにいねー、しかたないからベッドの上をごろごろ転げ回るよー」くらいの感じだったと思うんです。対象となるキャラクターの種類ではなく、萌える当事者であるダメ人間の感情の種類のほうが問題であって、少なくともそれは「マジ」な感じではなかったと思う。
圧倒的にこの用語を聞くようになったのは、俺はセーラームーンの土萌ほたるのあたりかと思ってたんですが、よく考えると「マルチ萌えー」の定型文のかたちで聞くようになったのが用例としてはいちばん爆発的に普及しはじめたころなんじゃないかと思います。もっとも「萌え」という言葉は、いまだにその定義が形作られている途上にある新しい単語だと俺は思っているんで、その発生当時ではなおのことそうで、それぞれのダメ人間な方たちが属するコミュニティによってかなり定義は違っていたはずです。
俺は、当初はこの「萌え」という単語を嫌っていました。かなり激しく。それは「軽い」感じがしたからです。俺にとってフィクションというのは、そのキャラクターも含めて「すべて」だったんです。フィクションのキャラクターより強い愛着を感じる存在は、現実に一人もいなかった。それは親兄弟も含めてです。むしろフィクションのためにすべてを捨てるべきだ、くらいに思ってた。だから、比較的軽い意味で使われることが多い「萌えー」っていう言葉で、そうしたたいせつな存在に対する愛情を相対化するような気分というのは、理解できない以上に嫌悪の対象でした。そういえば「萌え」という言葉には、当初から「自分の感じているこの感情」を相対化するような機能があった気がします。
その「萌え」という言葉が一種の形而上化みたいな変質を遂げるのは、いまのところ本田透をもって嚆矢とするのかもしれませんが、俺は本田透という人が文筆活動を始める以前の「しろはた」というサイトをあんまり知らないんです。当時からあまり好きじゃなかったから。このへんは俺より詳しい人がいっぱいいるでしょうからあんまり余計なことは言わないことにしておきます。
ただ、本田透の言う脳内恋愛とかそういう概念に直接つらなるような流れ。俺が「萌え」という用語を意識的に使うようになったのは、その流れの源流あたりであることはまちがいないと思います。こう言うとまるで俺が誇大妄想狂のようですが、実際には俺の前にも言語化していた先人たちはいました。俺は、自分がテキストを書きはじめた1999年あたりからしか状況を知らないのでなんとも言えない部分があるんですが、おそらくこうした人たちが、フィクションのなかにふつうの人が見出す以上のなにかを見出そうとした直接の契機は、「ONE」というゲームにあるのではないかと思います。このへんは傍証しかないです。
ただ、注意したいのは「萌え」という言葉が先にあって、そのあとに「脳内恋愛」のような概念が来たわけではありません。あくまで、フィクションの、それもエロゲの一部の作品のなかに、現実に替えがたい価値を見出すような人たちの一群が現れて、その後に「萌え」という単語が乗っかっていった、というのが実情です。これは「萌え」という単語を巡っては常につきまとう現象で、要するに広い意味での「フィクションのキャラクターへの恋愛めいた愛着」に対して、その感情を感じている当事者たち自身がうまい言葉を思いつけず、とりあえず「萌え」という言葉を採用した、という感じなんじゃないでしょうか。そして、そういうことがあちこちで同時多発的に起こっていた。そのうちのある流れを戦略的に採用したのが本田透という人ではなかったか、と俺は思っています(もちろん当人のやむにやまれぬ思いもあったでしょうけど。ただ本にして刊行し、概念として提唱してしまったからには個人の事情は斟酌すべきではないと思う。明確な理論として提唱する段階では、いろいろと切り捨ててしまった不都合なこともあるだろうし)。
ここから先は余談めいたものになるんですが、俺は本田透という人の本はあまり好きではありません。いくつか読みましたが、印象としてはやはり言い訳めいたものを感じる。あるいは「そうでなければならないのだ」という決め付けのようなものが先行している印象がある。
でも、当時、俺を含め、世間的にはとるにたらないどうでもいいようなものである「エロゲ」というものに、何事かの価値を見出そうとしていた人たちは、ただ「そうするよりほかしかたない」というかなり追い詰められた場所でそうした営為を繰り返していたと思います。そして、俺が見る限り、聡明な知性を持っていたそれらの人々は、自分たちの営為をイデオロギーにはしなかったと思う。ただ、自分と作品の向かい合いのなかで、何事かを模索していただけであって、そこに価値を含ませるような、いってみれば無粋なまねは決してしていなかったんじゃないだろうか。もっとも、本田透という人がそうでなかったということは断言できません。それこそ「戦略的」というように見えるんですから、意図的にやってるのかもしれないですし。
俺が本田透という人の言説に感じる違和感、もっと強くいってしまえば嫌悪のようなものは、彼の述べることにイデオロギーの側面がどうしても見えてしまうことが原因なんだと思います。脳内恋愛でもなんでもいいんですが、本来それは純粋であればあるほど、現実とは無関係なものになっていくほかない。愛するものがフィクションのなかにしかないのであれば、現実はどうでもいいはずです。そうは言っても人は生きていかなければならない。それはそうでしょう。俺たちの立場を認めろという主張もありうるのかもしれない。そこまで行くと、もう人はいかにして生きるべきかとかそんな話になってしまうんで、結局は個人の趣味の問題でしかなくなるんですけど、俺は、趣味としては「自分の選択した道ならば、そのことが引き起こす困難も含めて、すべて引き受けるべきだ」という人なんで、自分の選択のことで社会にとやかく言うのはどうかと思うわけです。
そして繰り返しくどくどと書きますが、フィクションを選んだのであれば、現実は否定してるんです。否定している以上、現実にいる自分がクソまみれであろうと、死にかけであろうと、そんなことはどうでもいい。逆に、どうでもいいものでなければならない。フィクションを愛することで自分自身が本当の意味で救われることは絶対にありません。なぜならこの肉体は現実に生きているからです。別に性欲がどうこういう話ではなく、美味しんぼをいくら読んだっておなかは膨れません。だから、だめなんです。そこを承知のうえで(承知してないで選ぶことは許されないと思う)選んだのであれば、現実は自分にとって無関係で「なければならない」。だから、現実を視野に入れている本田透という人の理論が、俺には、いってみれば「不純」に思えるのだと思います。
ちなみに、トラックバック先のナツさんとこが、萌えとエロとの関係について書いてるみたいなので、そのへんも考えておきたいんですけど、俺、どうしてもナツとこのコメント欄で交わされていた議論がわからなかったんです。なんでかなあと思ったら、自分の定義が一般的なものとずれてるから。
まず俺が考えるに、萌え系コンテンツというものは存在しないんです。俺が考えるに、それは作品と読む人の関係性の問題だと思うから。欲望のもとに消費するかどうか、という問題。まあ実際のところは「オタくさいもの」はみんなひっくるめて萌え系ってことでよいのだと思われるけど。要は一般人から見た視点だとどうなのかなって話。だから、ただ漠然と「オタくさいもの」と考えるに留める。ただこれも個別に見ていったときに、たとえば「よつばと」なんかどうなんだろうって話になる。まあ風香なんかは如実に作者の欲望が反映しているようにしか見えないけど、物語を構成している精神のようなものは、微量のノスタルジーを含有した、クソリアリズムのようなものだと思う。例として取り上げてしまったんで「よつばと」をネタに話を続けると、この物語を、よつばという子供の世界をただ仔細に描写しただけの物語としてみることはもちろん可能。実際そのようにして読んでいる人は多いと思う。しかし欲望の目線で読むことももちろん可能。そんなこと言い出したら、たとえさいとうたかをのマンガであっても欲望の目線で読むことは可能になってしまう。俺には不可能ですが。そう言い出した時点で「萌え系」というものは存在しなくなってしまう。最後に残る共通点は結局「あんな感じの絵」というものでしかない。
とはいえ、読者の欲望をそそるようにできているもの、というのは確かに存在する。萌え系とくくっていいジャンルのなかには、確かにそういうものが多い。属性入った時点で全部そうだろうし。属性というのはそもそもが「こういう傾向のものに俺は弱い、あるいは劣情をもよおす」という傾向をわかりやすく類型化したものだから、そもそもが欲望のもとでしか発生しない。それを具現化すれば、そのキャラは人間というよりは「欲望を引き受けるために誕生したダッチワイフ」ということになる。このダッチワイフ的状況が問題なのだと思う。
俺にしてみれば、ポルノ的なものも、男性的な世界観のみで形成されたゴルゴ13みたいなものも一緒に見えるんだけど、ひとつだけ大きく違うのは、ゴルゴ13は「男性的な世界観である世界を描写したもの」であって、結果としてその作品が読者にある種の快楽を提供するのだとしても、それはあくまで「物語」としての快楽だということ。読者はゴルゴ13を消費しない。楽しむわけだ。
対して、萌え系コンテンツの場合は、最初から男性の欲望に忠実なかたちで世界が形成されているし、またキャラクターもそのようになっている。萌え言うくらいだから、かわいい女の子(一部男の子も含む←そこ別に注釈入れるところじゃないから)が登場しないと話にならないわけで、そこでの読者の欲望は、多かれ少なかれ必ず恋愛的な何事かは含まれているはずだ。
萌え系コンテンツがポルノであるとするならば、核心はここだと思う。つまり、あらかじめ男性の欲望の形式を想定して、そこから逆算されて作られたようなものがポルノである、と。実際には逆算じゃなくても(つまり、やむにやまれぬ作者の欲求によって作られたのだとしても)結果としてそんな感じになってれば、ポルノになる。この定義だと、たとえばやぷうち優センセの作品でもポルノになりうる。だから結局は読む人と作品の関係だってさっき書いた(もっともやぶうちセンセがそのへん自覚的じゃないということは考えられないんだが)。
まるで欲望持つことが悪いみたいな言いかただけど、そうじゃない。恋愛感情(に類似のなにか、でもいい)には、ほぼ必ず性欲は含まれるものだ。そうじゃないこともありうるんだろうが、それは倒錯したかたちで性欲を満たしているに過ぎないと思う(ちなみに倒錯という言葉も別に悪い意味では使っていない。いちおーセックスしてーっていうのが正常なありかただとしたら、そうでなければ倒錯してるというだけだ)。
となれば、絵柄そのものが読者が感じる「かわいい」という感覚に奉仕している以上、萌え系コンテンツは全部ポルノということになる。あれ? なんだこの結論。なんかおかしくねえか。おまえさっき自分で言ってたことと違うこと言ってね? やっぱおかしいからこの結論やめた(とか言いつつ、身もふたもない結論は、たぶんこのへんにあるのだと思われる)。
まあ、例によって結論はナツさんが言ってたのとそう大差ない。だからといって萌え系コンテンツが悪いというわけじゃない。そんな壮絶な自己否定できません。
俺は前提として、すべての恋愛感情に性欲は必ず含まれるはずだと断言する人間なので、純愛なんてものはこの世に存在しないと考える。いや、性欲込みで純愛っていう別の定義はあるんだろうけど、とりあえずここではプラトニックとかそんな感じで考える。恋愛において肉体的側面は絶対に否定できない。対象が二次であっても同じだ。むしろ性欲がないのであれば、それは恋愛感情に擬した別のものなんじゃないだろうかくらいの勢い。あ、そーだ。ここで言う性欲っていうのは「手をつなぎたい」も性欲です。
なんか話が錯綜してるんだけど、これは俺の頭があんまりよくないからです。すいません。
もしポルノというものが、男性の欲望の形式から逆算されて作られているようなものであるとするなら、そのためにほかのなにかを犠牲にしてかまわないと考えるようなものであるとするならば、萌え系コンテンツといわれるものの相当部分がそれに該当すると思う。
ただ、それにもかかわらず、やっぱり俺は結局は、読む人が作品になにを見出すか、どうやって読むかの問題だと思うしかない。求めているものが人間ならば、たとえみさくら御大の作品であってもポルノではない(それは無理ねえか?)。求めているものが自分の欲望の充足ならば、鍵ゲーであろうともやっぱりポルノだ。そして実はこの両者はほとんどの男性のなかで不可分なものだと思う。
で、キモいと言われてキレる人の件なんですが、俺にはこれはまったく理解できないので完全スルーです。だって、作品は読む人のものであって、そこに他人関係ないし。もし他人になんか言われてキレるんだったら、そりゃ作品よりも世間の目が気になるってことでしかないだろうし。たとえどれだけボロクソ言われたって、脳内恋愛なり萌えなりがそんなたいせつなものだとしたら、隠れてでも読み続けるだろう。自分にとって至上の価値があるものならば、キモいと糾弾する人間のほうをむしろ「なにもわかってないかわいそうな人間」と見下すことになると思う。自分のこの楽しみを他人になど理解させてやるものか、と思うんじゃないだろうか。
もしそうでないとしたら、それはどこかに嘘がある。ごまかしがある。
以上、骨の髄から現実逃避癖のある人間がなんか書いてみました。
わからん。脳内がたいせつなら、なぜ現実を気にしなきゃならんのだ。すべて見たくないし、忘れたいだろうに。戦う気力も理由もないから逃避するんじゃないのか。やむにやまれぬ事情で逃避させられることなど人間にはない。人は自分の選択として逃避するんだ。力がない自分が心底嫌いで逃避するんだ。自分のことすら忘れたいだろう。なにもかもなかったことにしたいだろう。脳内恋愛を選択するってのはそういうことじゃないのか。主体である自分だけはこの世界で生かしておきたいって、それどこまでぬるいんだ。人はフィクションを選択したとき、現実的に死ぬんだよ。肉体は生きてるけど、半分死んでるんだよ。逃避するってのはそういうことだ。居場所なんかないんだ。居場所なんていらないんだ。否定すべき現実すら持ってない。
なんにもない。
なんにもないから、すがりついたんだよ。
そういうことなんじゃないのか。
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