まず定義からしておきます。
ある能力において、常人が努力ではなかなか到達できない場所に最初からいる人、あるいは能力を「天才」と呼ぶことにします。そうしたものを持っていない人を「凡人」と呼ぶことにします。ちなみにこの用語にはいっさいの価値観が含まれていません。天才というのは別にいいもんじゃありません。たぶん。俺は凡人だからわかりませんが。かといって凡人であること、平凡な日常にこそ幸福があるんだなんてことさらに言い立てるつもりもありません。「天才」「凡人」そのいずれもが、単なる人間の状態の描写だと思ってください。この場合の「天才」は、だから、通常の意味での「天才」よりはだいぶ意味合いが軽くなります。百人とか数百人に一人はいる可能性がある程度の天才です。もっとも俺は、人間だれしもが、ある特定の狭い範囲においては天才でありうる可能性を信じていますが。
さて。この定義でいうと、まゆみさんは紛れもない「天才」ということになります。
天才と凡人の違いというのはどこにあるのか。
天才についてよく言われる言葉として、たとえば「天才は孤独である」というのや「子供はみんな天才である」というのがあります。そのいずれもが正しいと俺は思います。
遺伝的な資質というのは、もって生まれた頭脳のスペックのことでしかないと思う。絵画や音楽の世界には常軌を逸した天才というのもいるようですが、あれはどちらかというと大脳生理学とかの課題に近いんじゃないかと俺は漠然と思っています。
もともとのスペックの厳然たる違いというものはあるものの、その後凡人となるか天才となるかは、ひとえに「可能性」というものを否定するかどうかにかかっているんじゃないでしょうか。子供はみんな天才である、というのはその意味においてです。
まゆみさんは論理でしか物事をとらえません。おそろしく乾いた世界です。論理というのはそれ単体では現実とは無関係なのものなので、ある原因に対して無数の可能性が存在します。まゆみさんは「現実」というものは「起こりえた無数の可能性のひとつ」としてしか把握しません。逆にいえば、まゆみさんの頭のスペックの追いつく限界まで、すでにあらゆる可能性は想定されていることになります。現実を支配するルールと照合して考えた場合、可能性は制限されるわけですが、まゆみさんは「現実を支配するルール」もまた論理的に把握しているため、その両者の照合は容易です。かくして現実という場所は、まゆみさんにとっては「起こりうることがふつうに起こっているだけの退屈な場所」となります。
じゃあ頭のスペックを活用するためになにかすればいいのに、という話になるんですが、まゆみさんはどういうわけか、かなり子供のころから「自分は何者にもならない」と固く決めてしまったようなのです。これについてはなんでそんなこと思ってしまったんだか俺にもわかりません。おそらく「不自由な」大人たちを見て「自分は自由でいよう」というようなことだったんだと思うんですけど。まああれですね。大人になんてなりたくない。大人は汚い。そう思ったから、そういう大人にはなりたくない。それを愚直に実行してきたわけです。
「何者」には、たとえば各種の専門家なども入ります。役職家族での立場その他、人間が必然的に背負わなければならないほとんどすべてのことが入ります。そしてまゆみさんはそれらのすべてになりたくはなかった。ただ、一人で生きていくという前提がある以上、せめて高卒の資格くらいはないと生きづらいらしい。だから高卒の資格だけは持っています。そしてそう思った以上「勉強に関して、高卒の資格を取得できる以上の学力は必要ない」と判断しました。それで「私は勉強ができないから頭が悪い」とはおめでたいとしか言うほかないですが。
こうしてまゆみさんは思考能力だけが高く、勉強はできない、という変わったポジションに立つことになりました。
まゆみさんはつい昨日まで、自分が天才であるという事実を認めてはいませんでした。
それは「もし自分が天才でなければ、自分と同じレベルでものごとを考え、共感してくれる人はいるはずだ」からです。もし自分が天才であれば、その可能性は極度に低くなります。つまりこの世界において、原理的にはまゆみさんは孤独であるということになります。だからまゆみさんは、自分が天才であるという事実を認めませんでした。
どういう方向にも特化されず、ただ野ざらしに存在していたまゆみさんの知能は、ただただものごとを論理的に把握し、本質にものすごい速度で到達する、ということにしか生かされていません。本質に到達したら、あとはそのとおりに行動する意志を持っていればいい。
自分を天才だと思っていなかった、つまり周囲の人間と別に変わらないのだと思っていなかったまゆみさんにとっては、周囲の人々が悩んでいる姿がどうしても理解できない。「わかりきったことなのにどうして実行しないのだろう」と。そこから導き出されたまちがった結論は「それらの人々が怠慢だから」というものでした。
たとえば仕事ひとつとってもそうです。俺らの仕事はコンビニの経営です。コンビニというのは小売業です。つまり商品を売っています。そしてそれらはだいたいにおいて日常生活に必要なもので、しかもわりと緊急度の高いものが多いです。よって客は「なにかを欲しい」と思って来店するのであって、それらの人々がわかりやすく買いやすい売場を維持することが商売の本質となります。そのために商品の陳列順はだれにでもわかるかたちでの法則性を維持していなければならず、また全商品がすっきり目に入るように、棚の間隔は可能な限り調整され、商品のいちばん目立つ部分がすべて客の目に均等に飛び込むように陳列するのが基本となります。客の目線と店内における動線を計算したうえで商品というのは陳列されなければならないわけです。その陳列のしかたというのも長年かけていろんな人が工夫した結果として、ある程度は方法論が確立しています。下段に近づくほど生活必需品、目的買いの要素が強い商品。上段に行くほど衝動買いの要素が強い商品。
というようなことを、最低3ヶ月はかけて綿密に説明していくわけです。個々の商品特性とともに。
しかしまゆみさんにとっては「コンビニで商品を売る→そういう売場を作る」だけの理屈になります。つまり、コンビニというものの性質は前提としてすでに(ふだんの生活のなかで)理解していて当然。そしてそういう店で商品を売るのである以上、どういう陳列をしなければならないのかも、あらかじめ理解していて当然、というわけです。理屈で考えればだれでもわかるはずのこと。だから、そのあたりの説明はすべてまゆみさんにとっては不要となります。考えればわかること、になっています。自分がわかる以上、たとえばいまレジにいる客でも、店員になれば同じことができるはず、と考えます。
実際うちの売場は、コンビニ関係者の内部で非常に評価が高いんですが、基本的にはまゆみさんがそのほとんどを一人で作っています。そしてまゆみさんは、そういう棚を作るのは「だれにでもできること」だと思っていました。
まゆみさんの場合、たまたまやっている仕事がコンビニであったからこういう結果になってますが、たとえなんの職業をやっても結果は一緒だったでしょう。というか日常生活全般において、常に同じようなことをやらかしてます。
このことは、逆にいえば「その結果に到達できない人が、なぜ到達できないのか理解できない」ということになります。
そして30歳にもなって、昨日、ついに「自分はほかの人とは違うらしい」ということを理解したようです。
まゆみさんにとっては、ほぼすべての話相手が「退屈」と感じられます。わかりきったこと、理屈でいえばまちがったことしか言わないからです。そして自分の考えを伝達するためには、相手の理解に応じた説明のしかたをするしかないのですが、まゆみさんには「どこからがふつうの人にとって難しいのか」がわかりません。人間は論理よりもより多くを情緒に負っています。情緒というのはいいかえれば「なんとなく」ということでもあります。しかしまゆみさんには「なんとなく」がわかりません。まゆみさんにとっては「明解に説明できるに決まっている」ことで「なんとなく」を持ち出されても困るわけです。
このようにして、まゆみさんは「理解させる」ことができないことによって「理解される」ことができません。最初からその苦労もなく同じ程度の速度で会話ができる人を切実に求めているようです。しかし一般的にまゆみさんのような思考能力を持ってる人は高学歴であることが多く、コンビニで仕事してる人のなかにはあまりいません。そしてなにより不自由なことには、まゆみさんはただ頭がいいだけで、自分の天才を活用するための、いかなる表現方法も持っていません。
かくしてまゆみさんは、慢性的にストレス状態です。
まあ、なんというか、不自由な人です。だれよりも自由であるために、かえって不自由であるという意味わからない状態です。
一人か二人ばかりいたんですけどね。まゆみさんの話相手として絶好な人が。でもその人、遠くに住んでるしなあ……。
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