えむけーつーです。
ブログというのはすごいなあとたまに思ったりします。なにがすごいって、テキストの出来不出来によってページビューか簡単に変わったりするのです。つまんないと、ページビューが減ったりします。おもしろいと判断されたのだと推測される日には、ユニークアクセスこそそんなに変わらないものの、ページビューのほうは増えたりします。特に俺の文章は当たり外れが激しいらしいので(しかも本人がおもしろいと思ったときが当たりとは限らない)、なおのことです。
俺はコンビニの経営者なんていう商売柄、ブログでも以前のサイトでもそうなんですが、アクセス数をとにかく気にします。数字がある。結果が出てる。ならば伸ばさねば。もうこれは本能みたいなものです。商売やってる人はだいたいそうだと思うんですが「数字が落ちる」ということがもう、いやでいやでしょうがないのです。ふつう「アクセスを伸ばしたい」という欲望というのは、虚栄心とかそういうのっぽくてあんまり印象がよくないのはわかってます。しかし悲しいかな、これも商売柄いやってほど痛感してるのですが、商品価値のないところに数字の伸びはありません。つまり、テキストがどれだけ人を楽しませられるか、ということです。
そんなわけで今日も俺は「どうやったら読んでくれる人が楽しんでくれるだろうか」と思いながらテキストを書いてるかと思ったら、実は自動筆記でものすごく長い。ごめんなさい。一日の終わり、仕事を終えて疲れて帰ってきてごはんを食べる。さーてネットでも巡回するかなーと思って「ふたつく」のブログに来たら、なんかスクロールバーが短い。
長文ってのは、それだけで人の気力を奪う力を持っているのではないかと思う今日このごろです。ちなみに最大で月産250KBくらい書いたことあります……。
さて、いきなりこんな話題でスタートしたのには、理由があるようなないような感じです。俺はまゆみさんの書いたテキストはそんなにつまらないほうではないと思うわけです。少なくとも文章力として標準以上のものは持っていると判断します。少なくとも、長文を書く人として、一定レベルの読みやすさを持っていることはまちがいないと思います。しかしまゆみさんはそのことが納得いかないらしいのです。
まゆみさんは「人に読んでもらう以上、推敲はするべきだし、句読点の位置も、段落も、読みやすいように工夫すべきだ」という考えを持って、相当に時間をかけてテキストを書いています。だから結果として読みやすいのはある意味必然だとすらいえます。俺みたいにミスタイプや誤変換すら確認しない人間とはわけが違います。
しかしです。まゆみさんはこう言うのです。
「自分みたいにちゃんと文章を書いたことがない人間ですら、それくらいのことはしてるんだから、みんなしてるはずだ」
またです。
まゆみさんはまた、世の標準のレベルを高く見積もってしまいました。
そんなわけで俺は、まゆみさんの文章は人前に出すにあたって(控えめにみても)さほど問題のあるものではない、ということを証明するために、書いた本人の目の前で「この文章のどこが優れているか」ということを説明するというよくわからない行動を始めました。そんな行動に出られたまゆみさんもたいがい困ったと思いますが。
その説明の過程で気づいたことがいくつかあります。
前提として、俺とまゆみさんの書いていることは、ただの日記です。それも身辺雑記という、いってみれば読む人にとって価値を持ちにくいものです。俺はあまりに長いことネット上でテキストを晒してきたので、いまさらそのことの持つ「意味」というようなことを考えたことがありませんでした。ましてや俺、書いたテキストはみんなアップする、というだけで自動的に更新してきたようなもんだし。
そう。人は他人の身辺雑記を読む。
よく考えたら、それだけで不思議なことです。この世界は利害だけで成立してるわけじゃないですが、たとえば俺がエスプレッソ好きであることなんかどうでもいいわけですよ。読んだ人にとってクソの役にも立ちません。俺は、自分もほかの人のブログとか読む人なんで、このへんのことを疑問に感じたことがなかったんです。
ただ、まゆみさんに説明している俺は、何度も「内容なんかどうでもいい。なんだっていいんだ」と力説してました。なぜだろう。文章である以上、まったくなんでもいいっていうことはないはずなのに。
そこで俺は気づきました。ある人の日記をある程度の期間にわたって読めるということ。それは、その人の価値観なりなんなりにある程度の共感が最初からあるということなんでしょう。ある人によって日記が書かれるということ。それはその人が生きた世界を、その人なりの言葉で再編集したものです。人が生きている。そのことに別に価値はないです。おなかすけばごはん食べるし、仕事行くし、学校行くし。それは、ただそれだけのことです。
でも、学校で楽しいことがあるかもしれない。それを「友だちとしゃべって楽しかった」と書いてしまうだけならば、それはそれだけのことです。しかし「どれだけ楽しかったのか」そして「ただそれだけのことではなかったのか」について書くのであれば、それはその人の世界観の反映です。たとえば俺は、まゆみさんと家でおでんを作って食べます。まあ、楽しいんですけど、それは、コロナの自然対流式ストーブの上で初めてやった煮物だから楽しかったんです。具材が煮えてくるのをいまかいまかと待ちかまえているのが楽しかったんです。もちろんまゆみさんと一緒だから楽しいです。俺にとってはただ「おでんを食って楽しかった」だけのことではなかったんです。
そうやって「おでんを一緒に作って食った。楽しかった」という表面的な描写と、実際に自分が感じた楽しさ、そのあいだに存在する落差。その落差を埋めようと俺は一生懸命テキストを書く。たとえば俺の書いた文章を読んでだれかが「おもしろい」と思ってくれるならば、その「おもしろい」という価値の源泉は、その「落差」を埋めようとする営為そのものに対する共感なんじゃないでしょうか。単純な事実は「おでんを食った」というそれだけです。しかしその「おでんを食う」という事実ひとつを把握するにしても、大根のうまさに着目するのか、あるいは気温、湿度とおでんのうまさの関係について言及するのか、さもなくばおでんの具材にロールキャベツが含まれることに対する抗議でもいいでしょう。とにかく切り口は無限にあるんです。
「それで」
と俺は、まゆみさんに説明を続けます。
「題材とかはなんでもいいんだ。まゆみさんが見たこと、感じたことを書くわけじゃん。その視点というか、切り口みたいなものが、そのまま人を楽しませる可能性があるってことだ。それをそのまま書けばいいんだよ。俺みたいに、必要以上にテキストをおもしろおかしく飾りたてようとする必要なんてないんだよ」
「そうだね。あんたの文章ってなんにも言ってないことが多いもんね」
そこまで言うことないじゃん!
ほんとにそうだけど!
いいじゃん別に! そういう芸風なんだから!
まあ、そんなようなことを長々とまゆみさん相手に語っていたわけです。
そんでもまあ実際のところは、だれにとっての価値ということでなしに、俺がまゆみさんのテキストを読んでおもしろいと思えばそれでいいのです。実は。
最後の最後で豪快に自分の書いたことを無効化してみました。
で、それはそれとして、俺は今日も時間帯別のアクセス数を見て分析とかしてたりするわけですが。
「今日は連休の初日で外に出る人が多いから、ネットやってる人は少ないな……」
「やっぱり休みの前日は遅い時間帯のアクセスが増える傾向がある」
「このアクセスの少なさはサッカーの試合のせいだな」
ちなみに分析はなんの役にも立ちません。
ほんとはアクセス伸ばしたいなら政治の問題でも扱っときゃいいわけだし。でもやりません。ここは「ふたりでつくる」。俺とまゆみさんが、俺とまゆみさんの日常をただ書くだけの場所だからです。
コメント