トラバ先の文章に対する直接の言及というより、非モテの問題に関して俺がメインで発言したのがナツさんとこなので。つーかまあ、大筋でナツさんの言うことにそのまま同意なんだけど。
ちょっと時間ができたので、最近ナツさんとこでいろいろコメントしたりなんだりしてる非モテの問題についてちょっと書いてみようと思う。やっぱ他人様のところでコメント書くのだけでは限界がある。あと俺が勉強できなさすぎて、どうも人に迷惑かけてるような気もするし。てゆうわけで、今回はまゆみさんにまったく関係しない話題です。ちなみに非モテの問題についてまゆみさんに説明したんですが「否定の先になにもないのであれば、それは意志がないということ。つまり、非モテという人々はこの世界に存在していない」で終わりました。ふだん人前で考えてること言わないわけだよ。
ちなみにこの文章は、どっちかっていうと自分の頭を整理するためのものです。
俺自身がこの問題について考えるとき、常に答えはシンプルだ。俺はこの世界は弱肉強食で、強いものが勝つと思っている。強さの基準はいろいろあるんだけど、少なくとも暴力だけはかろうじて禁止されている。裏社会とかそんなんがあるのかはよくわからないけど、少なくともふつうにこの世界で生きていく場合、暴力だけは振るったら負けだ。それは問答無用で傷害罪なので、法律によって罰せられる。すると、たとえその人がどれだけ正しいことを言っていようとも、その時点で理屈は通らなくなる。
で、「勝ち」の条件なんだけど、これはその人が心底満足していれば、それで勝ちだと思う。その満足にわずかでも欺瞞があれば負けだ。人間はだいたい生活してるので、生活の基盤が危なくなればやっぱ満足できない。そして生活の基盤を維持していくためには金と力が必要だ。そのうえでなにが必要なんだ、となれば、やはり己の欲するところに正直であることだと思う。不快なことを躊躇なく否定できることだと思う。ただ、本当に自分の欲望の赴くままに生きると、社会の網の目の一点であるような人間にとっては、いろいろ不利なことが起こる。だから、適度に利害を計算することが必要になる。そうしたさまざまな要素を総合的に持ち合わせて、この世界で「弱者」の立場に陥らないことが、俺の場合「強さ」ということになる。
そして多くの場合において、その人の社会的立場を決するものは、一対一になったときの勝ち負けだと思う。ルールのはっきりしない勝負では、対峙する二人がそれぞれ「勝ち」「負け」と思ったときに勝負が決する。常に勝負を続けて「勝ち」と心の底から信じられるような状態を続ければ、人は決して負けない。そして「勝ち」に必要な条件とは、自分の正しさを確信できることだ。まあ無根拠に自信満々な人間もたまにはいるが、その手合いは最終的に多くの人間の賛同を得られない。本人だけが「勝ち」と思って孤立してるような状態は、最終的には試合放棄と一緒だ。
てなわけで、俺の理屈の基本は「この社会」を否定しない。「この社会」のなかで、自分と、自分が愛する少数のものさえ幸福ならあとのことはどうでもよい、という前提に立っている。別に愛せるのならば世界中の人間に僕の愛をお届け!とかでもかまわないんだが、それは無理だと判断した。また、そもそも幸福に生きていくにあたって、一定以上の広い人間関係はほとんど必要じゃないとも思う。非モテの議論のなかでよく「自己承認」という言葉を見かける。俺はこの言葉を「あなたがいてよかった」と言ってくれる人を持っている、ということだと解釈してるけど、そんな人間は確かに一人か、あるいは数人でもいれば充分だ。逆に自分が心の底からそう思える相手だって、そう多くは持てない。だとしたら、それ以上は不要なのだ。すでに自分が「持ってしまっている」のならば、それ以上は持つべきでないとすら思う。
以上のような考えを持つ人間は、基本的には自己責任論者だと思う。そして俺は自己責任論者としてはもっとも極端なほうだと自分で思う。なにせ「自分が関わることはすべて自分の責任」だと考えるわけだから。この考えの根底にあるのは「この世界は敵」という認識だ。なにしろ、生きていくためには努力しなければならない。黙って座っていてもだれもごはんを食べさせてくれない。俺にとっては「生きるために手の一本でも、指のひとつでも動かさなければならない」という時点で、この世界は「俺が生きていくにあたって不適切な世界」だということになる。俺にとっては「生きること=食うこと」に近い。自分が生存していることは、必ずほかのなにかを奪うということだ。食うことは直接的に他の生命を奪うことだし、利潤は常に窃取と同意だ。しかしそのことに罪悪感を覚える必要はない。むしろ、感じてはならない。なぜならば、それでも人は死にたくないからだ。現に生きている以上、人は死にたくないはずだ。なにしろ、死にたければ死ねばいいのだ。死ねばそれで終わり、は絶対の正論だ。それを選択しない以上、人は生きることを望んでいる。そしてそうである以上、その人はなにかを犠牲にすることを「引き受けている」はずなのだ。そんな世界が自分にとって「望ましい場所」でありうるはずがない。比喩的には、俺は多くの動物や人間の死骸を踏みにじって、この世界に立っている。逆にいえば、そうしなければ立っていることはできなかった、ということだ。こう考える人間が弱肉強食を標榜するのは必然だ。
そんなわけで、自分が関わることで他人が助けてくれることはありえない(原理的には、って話。ここでいう「助ける」っていうのは、その人が自分の利害を完全に捨てて、ただ「俺」のために奉仕してくれる、という意味合いになるから)。である以上、自分がどうにかするしかない。で、すべては「自分の責任」ということになる。もっとも、社会的存在としての俺が目的とすることは「死なないこと」がまず第一で、次に「負けないこと」なので、この目的から考えて特に果たすべきと感じないことは他人に押し付けてよい。んなわけで、俺にとってすべての人間関係は打算にしかならない。
そしてここから先が、おそらく俺が理屈で物事を語れない人間である最たる理由だと思うんだけど、そうはいっても人間は一人で生きていくことが難しい。まあ、打算だろうとなんだろうと、社会的存在である以上、一人で生きていけるはずないって話もあるんだけど、それとは違う意味で。
いままで書いてきた感じでは、俺は「人間は原罪を背負っている」と考えてるっぽい人なんだけど、そうではない。「生きていくことを選択した以上、原罪を背負っていると認識する甘えは許されない」というのがより正確だ。「おまえは奪ってでも生きる道を選択した。ならば、その血塗られた道を進むのがおまえの義務だ」とでも言ったらいいんだろうか。「おまえはまちがっている」と脅迫してくる世界に対して「いや俺は正しい」と常に反駁し続けるのが俺にとっての「生きる」ということだといえる。しかもそれは反論のための反論なんて生易しいものではあっという間に潰されることは目に見えてる。だから自分が心底それを信じていなければならない。そうでない正しさ、たとえば、他人に由来する正しさ、共依存みたいな偽りの承認なんてものでは実際「使い物にならない」のだ。「死ね」と言われたときに「いや、俺はこういう理由で生きている」と断言できるだけの、崖っぷち状況でもなお「使える」だけの正しさでなければならない。
しかしまー、そんなのはものすごくしんどいわけだ。ここのところはうまく説明できない。とにもかくにも一人きりであることはしんどいのだ。こういう文章書いてるときに絶対に使っちゃいけない言葉だと思うんだけど、「人間そんなもんだし」としか言えない。
しかしそうやってがんばってるうちには「あー、そうそう。自分もそういうのが正しいと思ってた」と言ってくれる人が現れる可能性がある。まあ現れないかもしれない。そのへんは運次第だが、少なくとも自分にとっての「正しさ」を共有できる人間を探す努力は絶対に必要だと思う。もっとも生きることを「引き受けている」人ってのは、否応なしに自分にとっての「正しさ」を撒き散らしながら生きてるようなもんだから、大して探すまでもなくお互いわかる可能性が高いんだけど。
人間関係のすべてが打算であると考える俺は、この「正しさ」を共有するというただ一点において、打算でない人間関係が成立すると信じている。自分はこうやって生きてきた。こうやって生きていくつもりだ。それを理解してもらえるということは(理解させるっつーことでもあるが)、そのまま「二人でこうやって生きていきましょう」につながる。一人で戦うことは孤独だが、理解者が一人いれば、それは全世界を手に入れたも同じだ。ただそれでも「人間は奪って生きる」という前提がなくなることはない。共闘者である以上、互いに奪い合っては話にならないわけで、その場にいる二人は、二人ともが前提として「世界から奪える」人間であることが必要だ。この言いかたに語弊があるならば「自分なりの正しさをもって世界と対峙できる」ことが必要だといってもいい。もっとも二人が出会うきっかけがそもそも「正しさの共有」であったわけだから、自分で言ってることなんかおかしいと思うよ俺。ただ、俺が考える「自己承認」というのは、このへんにある。「君がいてよかった」というのは、俺が考えるには「君の考えは正しい」と言ってもらえることとほぼ同義だ。
さて、非モテについて話してるはずが、俺はここまでまったく恋愛の話をしていない。これは、俺の目的が「死なない」というものすごく低いレベルに置かれているからだと思う。恋愛感情も性愛もひっくるめて俺にとっては二次的なものでしかない。まず人間は絶対的に「一人」の状態からスタートするのであって、そうして初めて別の「一人」と出会えると考える。そして「一人」でなく「二人」となって、そこからがようやく「生きやすくなる」。
ただ、長いあいだひとつの人間関係を続けていくためには性愛という要素があったほうが長続きしやすい、という程度の話だ。そして恋愛感情なんてものに至っては幻想でしかない。こうまで断言できるのは、俺が実際に恋愛感情というものを知らないせいもあるけど、世上によくいわれるように、もし恋愛感情がほとんど理不尽な力のようなものであるのだとしたら、そこに「正しさ」はいっさい関係がない。恋愛感情が永続することが可能で、それが日々人が生きている「この世界」と折り合いがつけられる性質のものならば話は別なんだけど、恋愛感情の本質は排他性にあるんじゃないかと思う。俺は恋愛の当事者であったことはないからよくわかんないんだけど、恋愛感情によって結びついた二人の人間が、正しさを共有して生涯のパートナーであることは可能性としてはそんなに高くない気がする。
ちなみに「生涯のパートナー」的な考えかたに固執するのは、一度共有された「正しさ」は、共有されている以上、今度はその二人のあいだで育まれるものなので、途中でパートナーを変えるのはしんどいんじゃねーか、と思うからです。
てなわけで、こういう場所から物事を見ている俺にとっては、非モテの人たちの理屈がまったくわからないものに思えるわけです。恋愛資本主義というものがあるのかないのか、ということはそもそも原理的に「関係ない」ことになってしまうし、実際俺にはそんなものは「見えない」。これは結婚した現在だから、ということではなく、一人だったころからそうだった。
ただ、furukatsuさんが言うところの暴力革命がアリだなーと思ったのは、暴力っていうのは問答無用で絶対の力だから。反対する人がいても殺しちゃえば終わりだし。暴力は最後は必ず殺人に到達する。ただ、殺されなかった人たちが幸福になれるのでなければ、たぶんなんの意味もない。暴力革命というのは、理屈では「恋愛を望む人は皆殺し」ということだと思う。俺のように性愛は人間にとって二次的なものでしかないと考える人間でも、理不尽な暴力のように襲いかかる「恋愛感情」というものを否定することはできない。恋愛感情を肯定し、恋愛関係を否定するのであれば、そこに必ず抑圧が発生する。抑圧は人を幸福にしない。あるいはその抑圧を上回る幸福の「モデル」が必要だと思う。俺は(あるいはナツさんも)「ヴィジョン」ということにこだわるのは、それがなければ革命にも説得力がなくなってしまうから。そして少なくとも俺は「俺は世界はこんなふうにできていると思う」という現状追認しかしない人間で、じゃあこの世界は現状あるがままでいいのか、という疑問に対しては必ずしも「イエス」と答えることかできない。だから「ヴィジョンを見せてほしい」とむしろ願うのだと思う。
実際に世界を動かそうとするならば、現実的な力が必要だ。そしてそこには強固な「正しさ」が必要だと思う。
ちなみに非モテ関連のテキストつーても、俺はfurukatsuさんのテキストくらいしか読んでない。そして、そもそも現状追認的であるか、現状打破的であるかという点において把握のしかたのフレームが違いすぎるんで、恋愛とかに関する言説に関しては、俺はfurukatsuさんの言うことが理解できないように「なっている」。これはほかのすべての非モテの人たちの言説についてもたぶん同様。否定的といえば根底から否定的だ。だが、行動を起こしたことだけは賞賛に値する。そして行動を起こすということは現実的な影響力を行使するということで、そこには正しさがあってほしい。そのほうがわくわくするじゃん、というのが俺の感想でした。
また思いついたらなにか書くかもしんないです。
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