今日はまゆみさんがほとんど登場しません。なぜならMK2さんは、今日、珍しくひとりで行動していたからです。というのも、まゆみさんが絶対に行きたがらないところに行かなければならなかったから。
食品衛生管理責任者講習会。
だったかな。そんな名称の講習会に行かなければならなかったのです。いちおーまともに説明しておきますと、食品を扱うすべての業態は、各店舗に一名ずつ、衛生管理責任者というのを設置しなければなりません。この責任者の資格は、地方自治体が主催する上述の講習会に参加することで得られます。
「まゆみさん行きますか」
と聞いたところ、
「今後永久にシフトに出なくていいなら行く」
という、つまりおまえ死ね的な交換条件を出されたため、俺は泣く泣く一人で行くことにしたのです。もっとも俺がまゆみさんの立場ならば、やっぱり行くことは断固拒否したと思いますが。
そんなわけで、とぼとぼと一人で行って参りました。
講習会の内容なんですが、ひたすら食中毒についてです。毎年流行の食中毒も変わります。今年はご存知のとおり、ノロウィルスでした。講師の人はやっぱその道の専門家なので、お話は非常に含蓄に富んでいるものだったのですが(なのかもしれない)、しかし、たとえ食中毒の専門家であっても、人前で話すことの専門家というわけではありません。つまり、ありていにいって、非常に退屈なのです。
そんなことは毎年受講している俺にはあらかじめわかりきっていることだったので、ちゃんとヒマつぶし用の道具は持参しておりました。ノートとボールペン。これだけあれば充分です。なにしろ常日頃、質はともかく量だけは大量のテキストを垂れ流している俺です。文章を書くということはそれ自体が無上のヒマつぶしなのです。
講義が始まる前から、すでにノートとポールペン全開。ようし。完成しない小説のキャラクター設定表でも作ろう! いたたたた、俺中2? でもいいのヒマつぶしだもの。そう、いま季節は春。そうだ桜の木の精なんか作っちゃえ! 桜の木の精なのにどじっこ! 「うぁーん、まだ2月なのに咲いちゃいましたー。ごめんなさいー」とかあやまってんのな! なに俺マジ天才! このありえない設定!
もちろんありえないのは、36歳にもなってこんな設定を、授業中の中学生みたいに嬉々として作ってる俺自体なのですが、まあそんなことはいいです。
講義が始まったのも気づかないくらい集中しています。
しかし講義が始まって数分。俺のなかに異変が生じました。
講師はマイクを使って話しています。ものすごいぼそぼそとしたしゃべりかたなのですが、それがマイクによって大音量になって講義室全体に響きわたるのです。大音量のぼそぼそ声。そう滅多に聞けるものじゃありません。しかも吐息と鼻水をすする音が過剰に汚いのです。特に鼻水をすする音に関しては、ハウリング起こしそうなくらいに大きい。これが音声魔法なら、市役所全体が鼻水魔法の影響下にありそうなくらいです。どういう効果があるんだろうね、その魔法。
それだけならまだしも、この講習会、実質は「おまえのところ食中毒出したらつぶれるよ」という脅しのために存在しているわけです。ですから、具体的な食中毒の事例、なかでも近隣地域のそれとなると、講師も必死になって伝えようとする。しかし、ふだん大きな声を出しなれていないのか、そのくだりになると、いきなり声が裏返るのです。
「ぼそぼそぼそぼそ、(とつぜんヒートアップ)ボツリヌス菌による事例が(「ツ」が裏返っている。しかも同時にハウリング)キーン、ぼそぼそぼそ、(発狂)こ・の・ち・い・き・で・も!(ほぼすべての音が裏返っている)ぼそぼそぼそ、なので・す(裏返っている)」
おかしいです。こいつおかしい。
もともと集中力がそんなにあるほうではない俺は、いともたやすく講師の裏返りマジックに翻弄されます。これもある種の音声魔法です。あの裏返りのすさまじさを考えると、なんらかの禁呪である可能性すら考えられます。先住民の遺産っぽいやつです。
しかも、俺の中途半端な仕事に対する自覚が邪魔をします。実際のところ食中毒なんて出してしまったらたまらないわけで、ノロウィルスなんて単語が聞こえてくると、やっぱり気になってくるわけです。
気がつくと、ノートには桜の木の精の外見の設定に混じって「ノロウィルス」「サルモネラ」「死ぬとき毒素を発生」とか書いてあって、なんだかわからない状況になっています。しかもなんだかんだで結局眠いのです。ノートはカオスの度合をどんどん深めていきます。
「高熱でも殺菌できない」「擬人化」「ふしぎ探検隊」「あの子の胎内めぐりでナンマンダブ」「0-157たんは少数の菌でも発症してしまう、孤独な子」
さー、おかしくなってきました。混じってます。謎のミックスジュース状態です。俺の妄想がマーブルうんこ状態です。ごめん。俺だんだん幼児化してる。
そして最後にできた設定がこれです。
俺は悪のレジスタンス組織のボス。敵は食品衛生管理庁。
その世界では、食中毒こそがもっとも恐れられる病。俺はそれをテロリズムに利用する。その社会では、食中毒菌をあらかじめ持っているにもかかわらず、症状が顕在化しないタイプの人間(なぜか女の子に多い)は、迫害され東京郊外のスラム街に追いやられている。俺の仕事はその女の子たちのなかから、特に感染力の強い菌を保有している女の子をスカウトして、立派な病原体とすること。
で、具体的にはなんかスモールライトみたいのでちっちゃくなって、潜水艦みたいなのに乗ってほかの人間の体内に潜入! トレーニングを積んだ女の子のかめはめ波みたいなので、胃とか腸とか攻撃!
女の子は、保持している菌により、ある程度パーソナリティも影響を受ける。たとえばノロウィルスたんだと、死ぬに死ねない頑丈な体を持っている。しかも少数の菌で発症してしまうので、どうしても孤独癖がある。
「私、死にたいと思った。でも、何度やってもだめだった! まわりの子たちがみんな倒れていく。でも私だけ、ずっと生きてる。……ずっと、ずっと、一人だけ生きてる……」
腸炎ビブリオたんだと、熱に弱い。
「うー。今日は気温が25度もあるからおしごとできませんー。えーあーこーんーえーあーこーんー」
ウェルシュたんだと、崩壊するときに毒素を放出して、また本体も芽胞化しちゃったりする。
「っくしゅ。……あ、またくしゃみしちゃった」
くしゃみしたときそばにいた人間、みんな食中毒。おっかねー。
しかもすねると、芽胞つくって引きこもり。
「いーかげんにしろウェルシュ! この芽胞どうにかしろ! せめて通路のまんなかで引きこもるのはやめろって!」
「いーもん。どうせ私なんて。いらない子だもん」
「いらない子でもいいから邪魔すんな!」
「どうせ死ぬなら、まわりもまきぞえにしてやるーっ!」
……講義の2時間はなんだかわからないうちに終わりました。
ようやく解放されて外に出ました。冬というにはやややわらかい空気が俺を包みました。学校帰りの中学生たちが、ふざけあいながら俺の横を通り過ぎていきます。
俺は大きく伸びをしながら思いました。
「……いったいなにやってたんだ、俺」
そのあとは、最近運動不足だったこともあって、ふだんちょっと歩かないような距離を歩いてみようと思いました。具体的には電車の駅ひとつぶんくらい。
郊外の私鉄駅にありがちな感じで、駅のすぐそばまで新興住宅街、つまりまゆみさんの嫌いなニュータウンが迫っています。俺は特にルートを決めずに歩き出しました。
似たような屋根。似たようなファサード。きれいなコンクリート。
すり鉢のような地形のなかにびっしりと並ぶ家。
坂を下って底にたどり着き、またすり鉢のへりをのぼります。
メインの道路からあえて外れて、わき道へ、そしてわき道から派生する階段をのぼりました。100段近くはある階段を、運動不足の肉体を引きずってよろよろとのぼります。半ばくらいでさすがに力尽きました。
休憩がてら一服。
石段に座って、いまのぼってきた景色を振り返ります。
すり鉢の全体を見渡すことができました。
昨日までは穏やかな陽気でしたが、今日はやや冷えています。とはいっても、2月という時期を考えれば充分にあたたかいほうでしょう。空には刷毛でてきとうに塗りこめたような薄い雲が幾層にも重なっていて、雲の上の日差しはぼんやりとしたかたちでしか地上に届きません。
その曇り空の下で、ニュータウンは死んだ静物のようにたたずんでいました。
あー、ここにも「暮らし」はあるな。
俺はぼんやりと思いました。「死んだ静物のよう」という表現とはかみ合いませんが、俺はそう思ったのです。ここで生まれ育った子供にとっては、この光景がふるさと。学校に行く途中、この石段をのぼる子供は、週に一度くらいは、なんとなく途中で振り返って、いま俺が見ているのと同じ景色を眺めるのかもしれない。俺にとって雑駁な市営団地の光景がある種の原風景であるように、その子供たちにとっては、この嘘くさいまでに整った無個性な家の数々がふるさとの光景なのだろう。
別に、だからどうということはないのです。
ただそう感じただけです。感じる、ということは、一面で「見えないものを見る」ということなのかもしれません。別にまゆみさんは残念でもなんでもないでしょうが、俺がいま見ている現実のニュータウンの家並みのなかに、俺が「見ている」幻想の人間たちの息吹のようなもの。それを見せてあげたいと思いました。
そのあと、駅まで、死ぬ思いでなんとか到達しました。
駅に着いてまゆみさんに電話をしました。
「まゆみさん、大変です。俺の36歳の肉体は、徒歩40分に耐えられません。無謀な試みだったのでしょうか」
「あんたバカだろ」
終わりました。
ま、まゆみさん、歩くことには、た、たぶん、価値があるのです。
俺は、あの、そう思うのです。
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