俺は今日からまゆみさんをヴィクトリカさんと呼ぶことに決めました。嘘です。決められません。「今日のヴィクトリカさん」とかありえないタイトルで日記を書いた日には、またお得意のきちがいブーストを何段階にもわたって多段発動させた妄想日記がスタートしたと思われるのがオチです。
「GOSICK」という小説を知らないとなにがなんだかぜんぜんわからないネタからスタートしてみました。別にこれは、俺が「まゆみさん萌えキャラ化計画」という信じられないものをいきなり発動したわけではなく、まゆみさんの性質のある一部がヴィクトリカに極めて近いということです。
たとえば、俺とまゆみさんは、中距離の目的のあんまりない中途半端なドライブに出かけることがよくあります。なにをやっているのかというと、しゃべっています。その内容は、まあどうでもいいような日常的な会話も多いのですが、まゆみさんはそういう会話にはすぐに退屈します。頭使わないからだそうです。まゆみさんは、以前の日記にも書いたとおり「なんにもない」の国から来た人なので、頭を使っていないと生きてる実感がなく「生きてても死んでてもあんまり変わらない」という世界に陥ってしまうらしいのです。日々ブチ切れた妄想で空疎な充実感で満腹の俺とはえらい違いです。
それでまゆみさんは俺に要求します。
「おもしろい話をしてくれ」
これほど酷な要求もそうはないと思います。これ、芸人に向かってカメラを向けて「はい、ここでボケて」といきなりやるのと同じ状況です。まゆみさんの言う「おもしろい話」とは、つまり「頭を使う話題を提示せよ」ということです。
もしまゆみさんがちょっと頭のねじが数本飛んでて「えへへー、わたしちょうちょ好きー」とか真冬に言っちゃうようなタイプならば「頭を使う話題」というのも「ライオンさんと虎さんでは、どっちがケンカが強いでしょうか」とかいうので充分なのです。そしてこの質問に対する解答は「実はしろくまさんがいちばん強いのでしたー!」「えーずるーい、しろくまさんどこにもいなかったのにー」と続きます。なにこの5歳児の描いたお花畑空間。しかしもしまゆみさんにこんな質問をしてしまったら、返ってくる答えは「実際にライオンと虎が戦った実例があればそれが答えだろう。しかし、偶然の要素もあるから、ある程度実例が多くないとわからない。そして私はその知識がないから答えられない」で終わってしまいます。違う! そういうことじゃないんだ! そういうぐうの音も出ないようなこの世界の終わりみたいな解答を求めてるんじゃないんだ! とかいうと今度は「じゃあどんな解答を要求しているというんだ。私は私の考えに基づいてしか答えられない」と来て、なんかこう、部屋の隅に正論で追い詰められるような心細い思いをするのです。ちなみに上の虎とライオンの質問に対しては、まゆみさんの機嫌次第によっては「やる気のあるほうが勝つんじゃね?」とかいうどうでもいい答えが返ってくる場合もあります。
しかもまゆみさんの明晰にして基本的に関心の範囲が狭い頭脳は、ほとんどの話題に対して「それはこうなっていると私は思う。しかしそれ以上は興味がない」という論法で答えを弾き出してしまうのです。
俺は思うのです。
頭を使って会話をするのならば、いちばん有効な手段は議論です。
そして、議論というのは一面で「芸」でもあると思うのです。
だいたいの問題において、結論というのはわかりきったあたりまえの正論だったりします。あえてありえない結論をおいて、そこに辿りつくまでのアクロバットちっく☆な論証を楽しむのもありですが、そういう会話は往々にしてネタになってしまい、まゆみさんとしてはあんまり頭を働かすことができません。であるならば、正論に辿りつくまでさまざまな仮説や論証を経て、きれいなかたちでまとめるのがいちばん「おもしろい」はずです。この場合、俺が仮の反論者になればなお盛り上がる。
はずなんですが。
最近、非モテをめぐる問題についてまゆみさんにあれこれ聞いてみたのです。いずれテキストとしてまとめるつもりなんですが、前提をおかずにまゆみさんに「で、この問題について、根本的な解決というのはありうると思う?」と質問したとします。
「自分自身でどうにかするしかないんじゃない?」
終わりです。
いくら自己責任論者といっても、これはあんまりです。
よく聞いてみると、この結論に辿りつくまでの過程はまゆみさんの内部にあるのです。ちゃんと証明もできるのです。それをいま書いてしまっては、この先テキストにしたときに同じ内容を繰り返すことになってしまいますので、いまはやりません。それだけで日記一日分くらいの内容にはなるのですが、まゆみさんにとってその内容は、すべて省略可能なことにされてしまうのです。だから、一足飛びに結論まで到達してしまう。その過程を説明することはまゆみさんにとっては「余計なこと」で、頭を使う必要はまったくない。だから、つまらない。
もちろん説明の過程で反論を加えることは可能なんですが、もともとが建築物のような頑強な論理性でものごとを考える人です。つまらん反論など一言で返されて終わりです。そして、次のセリフは、
「もっとおもしろい話ないの?」
これじゃ、謎をご所望のヴィクトリカと同じ状態です。言語化を頼んでいやいやしてくれるあたりまでひっくるめて、まったく同じ状態です。勘弁してください。
しかし、よく考えてみると、これはおかしな話なんです。
なにしろまゆみさんは、ただ単に「頭を使いたいだけ」なんです。だとしたら、議論はゲームでいいはずです。極端な仮説をたてて、屋上屋を積み重ねるような空疎な議論だとしても、そこで頭がフル回転するのであれば問題はない、ということになるはずなんです。まゆみさんの駆使する論理が頑強なのは、根底に「自己責任」という頑強な砦を築いておいて、そこからすべてを語り起こすからです。もちろん自己責任論自体を論証できないと、構築された論理は弱いものとなります。まゆみさんは、その点でも抜かりはありません。このへんの話は、最終的には常に「自分はどのようなしかたで存在しているのか」みたいな疑問に行き着くしかないんですが、まゆみさんはこのへんをさんざん考えつくしているわけです。
まゆみさんは「頭を使いたいだけ」と言っているが、その実やっていることは違うのではないか。
そのへんを聞いてみました。
まゆみさんはこう答えました。
「その立場に自分をおいて考えるんだよ。いちばんひどい状況と、いちばん効率がいい状況と」
つまり、まゆみさんにおいて、考えることはシミュレーションと同義ということになります。これでは極端な仮説など立てようがないし、自分から縁遠いことには興味の持ちようがないです。
まゆみさんは、ずいぶん長い年月、ただ自分を守るためだけに「まちがわないこと」を続けてきました。つけこまれないために、負けないために。まゆみさんにとって「考えること」はつまり「自分を守ること」とかなり近い位置にあったのではないかと思われます。目的がそうである以上、できれば現実的なことは本来「考えたくない」のではないか。だれだって無条件で安全なほうが気楽なはずですから。
まゆみさんは「自分の頭のよさは、現実的にまったく役に立たない」とよく言うのですが、頭のよさそのものは、なんにおいても役に立たないということは本来ありえません。それだけでアドバンテージです。しかしそれでもまゆみさんは「役に立たない」という。だとしたらそれは「役に立たせたくない」のではないか。
結果としてその「頭のよさ」は自分を救うために役には立っていた。しかし本来ならばそんなものは必要なかったのではないか。いろんなことを思考できる自分の頭脳を、自分から切り離してテーブルかどこかの上に放り出して「こんなもの」という思いで眺めていたのではないだろうか。
だとすれば、よほど現実と切り離された抽象論でもない限り、まゆみさんは原理的に「話題」としては楽しめない。楽しんでいるように見えても、それは明日の自分を守るためのシミュレーションにしかならない。
まゆみさんはナンプレというパズルが好きです。
ただ、頭脳を退屈させないためだけに、えんえんとそれを続けます。
それは、だれに役にも立ちません。
なんの意味も持ちません。
それでもまゆみさんは、ただ「動き続けるしかない」頭脳のために、えんえんとそれを続けるのです。
このテキストに別に結論はありません。
俺はまゆみさんに語りかけているわけではなく、単に「そのような状態にある人間」について描写しているだけだからです。まゆみさんの時間は現在進行形で進んでいる以上、そこに結論のつけようはないのです。
読む人がいて、その人たちを楽しませるためにテキストを書く、というのが俺の基本的な立場なのですが、あえてその原則を踏み外すとしたら、結論めいたものを書くことはできます。
もう、まゆみさんは自分を守るために戦う必要はないのです。
あとは、好き放題、自分の頭脳を使って、遊んでもいいのです。
ちなみに、まゆみさんが日記を更新するという、晴天霹靂、乾坤一擲、天地開闢、神鳴轟くような大奇跡が発生しました。いちおうリンク貼っておきますが、本人はめんどくさくなって途中で放り出したようです。以下次号みたいな書きかたになってますので、あらかじめご諒承のほどを。
http://munimunigyafun.cocolog-nifty.com/blog/2007/01/20070120.html
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