人に教える、というのは難しいもんです。
俺は比較的得意なほうなんですが、まゆみさんはこれが苦手です。
「教える」というのは、新しい考えかたのフレームを与えることなのではないかと思うのです。フレームって枠のことですよね。えーと、合ってるよねそれで。これもたぶん、どこかに適切な用語があるんじゃないかと思うんですけど。
新しい世界観を与える、ということでもあると思います。
たとえば数学を教えるとしたら、それは数学的世界観を与えるということとほぼイコールです。数学という世界観がもつ言語を体系的に教えていくこと。
だから「教える」という作業は、相手の固有の世界観を想像しながら、自分がこれから教えようとする世界観を、どうやったら相手の理解しやすいようなかたちに加工して与えるか、ということだと思うのです。
俺は、この世界には60億の世界観があると思ってるような人間ですし、そうした個々の世界観にこそ興味があるので、教えるという作業はさほど苦痛ではないのです。それは人間相手のパズルのようなものです。その人を構成する全体像のうち、目に見えない部分をてきとーに想像しつつ補完する。うまくいく、つまりこの場合「教えることに成功する」ことは、それだけで楽しみとなりえます。
人の世界観とは、たぶんに情緒的なものを含んでいます。情緒的といえば聞こえはいいですけど、早い話が偏向です。事実そのもの、あるがまま、というようなものは、それこそ神様でもない限り把握することはできません。見る自分がいる。それだけで、そこには一定のバイアスがかかっています。
そしてまゆみさんは、このことが理解できません。こと仕事に関しては、なににつけても理解は無色透明であるべきで、頼りにすべきは論理だけだと考えているらしいのです。そして、論理というものは明確であり、だれにでも容易に理解できるものだ、と思い込んでるあたりにまゆみさんの特徴があります。
論理というのは、それ自体は無色透明です。そして無限の可能性です。まゆみさんは、メモリの許す限り、この無限の可能性というものを頭のなかにいくらでも放置したまま、それらを自由に組み合わせる能力を持っています。そして、そこに先入観はないのです。あっても排除すべきだと思っています。基準とすべきは、ただ事実だ、と。
確かに仕事においては、その態度は正解です。
もっともまゆみさんの場合、基本的にはプライベートにおいてもそういう考えかたで動いていて、その先入観のなさ、ものごとを価値で判断しない自由さが、たとえば俺や俺の知り合いに対して「萌えってなんですか」というとんでもない質問をぶつけさせたりしてそれはもう大変なことになるのですが。
ただ、だれもがそうではない、ということをまゆみさんはなかなか理解できません。まゆみさんにとっては、変な先入観を持つことは、かえって「余計な手間」でありめんどくさいことに分類されてるんだと思います。「教える」ということのためには、相手があらかじめこの世界に対して持っているフィルターのようなものを、手触りとして感じることが重要なんですが、まゆみさんにしてみれば「なんでそんな面倒なことをしなければならないのか。そのまま考えればいいのじゃないか」とか思うんだと思われます。
以前にも書きましたが、まゆみさんの頭の回転のよさに驚愕するのは、主にインテリの人です。インテリってのは知的にものごとを考える訓練ができている人、というくらいの意味ですけど。ふつう、インテリの人っていうのは、一般の人は自分たちのようにものごとを考えることはできないのだ、という諦念(単なる現状把握でもあるでしょうけど)を持っています。ポストモダニズムでも構造主義でもなんでもいいですけど、すべてはこの現実を把握するためのフレームだと俺は思ってるんですが、そのフレームそのものを理解するために、ある種の知的訓練は必要です。なぜ訓練が必要かといえば、言葉が難しいとかそういう問題はさておき、ふつうの人はすでに自分の生活のなかで感じ取ってきた世界観を持っているからです。たとえば「義理と人情」の世界観で生きてる人には、基本的に義理と人情以外のものは見えません。義理と人情で感じ取っている世界に、別のフレームを持ってこられても困るし、さらにこうした世界観というのは、そこからはみ出たものを排除することで成立する性質のものです。
しかしまゆみさんは、生来の頭のよさのせいもあるんですが、こうしたフレームをすべて「汚い大人のもの」と把握し、自分はどういうフレームも持たない、ということでここまで生きてきてしまったため、新しいフレームに対してまったく抵抗がないのです。精神分析でもスーフィズムでも実存主義でもなんでもいいですが、要するにすべては構造です。その構造が論理でもって理解できる性質のものならば、まゆみさんにとってはなんでも一緒なんです。言葉さえわかりやすければ、まゆみさんは(説明されてる範囲に限っては)秒速で理解します。その速度のありえなさ加減と正確さに、インテリの人はだいたいびっくりするわけです。
逆にいえば、まゆみさんはだれでもそのようなことが可能だと思っています(最近は少しマシになりましたけど)。これが人になにかを教えるときの強烈なネックになってるわけです。理解できる、ということは「自分の理解の形式にとって、この部分がわからない」という質問のポイントを明確にできるということでもあります。実はそれこそが能力の一種なんですが、まゆみさんにとっては「構造を作るうえで欠けているものを補う」という必然でしかないので、そこに能力が必要であるということを想像しにくいのでした。そんでまた、この質問と理解の速度が爆速なんだわ。
たまにまゆみさんと類似の頭の構造を持った人はいて、そういう人にとっては、まゆみさんはまたとない教師です。しかし俺は、道端の小石にすら物語を見出せる強度の情緒的にして妄想だけで成立してるような頭を持ってる人なので、なかなかまゆみさんの説明についていけません。
というわけで、今後チョコレートの棚割について説明する際には、ゆっくりとお願いしますまゆみさん。私信かよ。
あと今日は、まゆみさんは魚介類のパスタを食べました。俺はペペロンチーノを食べました。あとはぬかづけちゃんの小屋の掃除をしました。まゆみさんもちびすけちゃんの小屋の掃除をしました。うさぎはペレットが好きです。俺はカレーが好きです。ちびすけちゃんはものすごく長いですが、猫よりは小さいです。ちびすけちゃんはおとなしいですが、ぬかづけちゃんは凶暴です。あと、伸びをするときうさぎは宇宙から来た凶悪生物みたいな顔になって怖いです。
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