まゆみさんがうさぎどもの写真をアップしています。
お急ぎでない方はうさぎの写真でも見て和んでください。もっとも実物のうさぎは和みとかそんなもんとまったく無縁の凶暴な生物ですが。
横のほうのフォトアルバムだかなんだかのなかにうさぎどもがいます。
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2007/04/29 00:36 カテゴリー: MK2がなんか書いた | 個別ページ | コメント (5) | トラックバック (0)
チャットでなんか文章の書きかたについて聞かれましたので、ついつい迂闊に語ります。 俺は自分のテキストに価値があるとはいまだに思ってないので、そんなもんについて語る資格はないと思ってたのですが、聞かれたからには書いてみるのです。だから今回のテキストはほぼ私信です。 チャットでは「着眼点」の話が中心に出ていたので、そのへんについて書いていこうと思います。とりあえずIKEAについて書いた文章、ここに晒しておきます。 あ、そーだ。今回は、バカおそろしく長いうえに、興味のある人以外にはあんま関係ないっぽいんで、あらかじめゆっときますー。以下、引用。つーか自分のテキストだけど。 まずコストパフォーマンスが異常。デザインまで含めて総合的な商品力に対して、価格が安すぎる。それはもう、本当に安「すぎる」というほかないくらい。ま た、デザインのみならず作りに関しても相当にしっかりしている。実用性、デザイン、そして作り。総合力から考えれば、どこをどうとっても安いという以外に 言葉がない。これじゃ話題になるのも当然だ。特に机だの棚だのの大物に関しては、もう絶句するしかないほどのコストパフォーマンス。大量販売、組み立て式 による輸送コストの削減、そして自社デザイナーの囲い込みによって、実質家具でいちばん金かかりそうなデザイン部分のコストを可能な限りゼロに近づける。 そしてかかったコストに対して儲けだけを乗せてそのまま販売。これをやられちゃ、一般の家具屋なんぞ太刀打ちできるはずがありません。 てゆうわけで、商品力はまさに異常。 店の立地も、港北インターから見えるし、最初から基本車で来る客しか相手にしてないので、最強に近い立地でしょう。 そして、販売方法や店舗作りなどの面。 まず会社のイメージとして「北欧」をかなり強く前面に打ち出しているのがわかる。北欧ってのは不思議な地域で、世界的に知名度の高いさまざまな要素がある のに、一種のエキゾチシズムがある。また福祉国家、国民幸福度高ランキングなどの特徴もある。また、家具にちょっとでも興味がある人なら「北欧っぽい感 じ」というのは憧れる部分がある。あれだけ最強の商品力を誇っていながら「北欧」というイメージを使うにいいだけ使ってるというイメージ力強化もできて る。抜かりがないというかなんというか。 そして売場構成。 これはいちばん感心した点だ。順路通りに歩かなければどうにもならない構造は、人によっては腹が立つと思う。しかし家具屋の基本はいまも昔も「一式そろえ る」高客単価の客を相手にすることだと思う。そして「北欧スタイル」を前面に押し出ししている以上、まずは生活を「IKEA風」にしてもらうことが、より 強力なブランドイメージの形成につながる。というかIKEA信者を作ろうってことだ。 そして売場そのものが、実に劇的空間として構成されている。基本的にはトイレタリー、ベッドルームなどジャンルに分けて空間を仕切り、そのあいだを通路で つなぐ、という構造になっている。とはいえ各コーナーは完全に独立した「箱」ではない。しかし客の視線は常に誘導されている印象。 たとえばベッドルーム関係のコーナーに入ったとする。すると視野がぱっと開ける。開けた視野のなかでショールームが展開される。 たかがコンビニでも日夜「客の視線」を意識して売場を作っているからよくわかる。この計算のされかたはただごとじゃない。漫然と置かれているものなんてなにひとつない。 そして順路の最後には在庫置き場があるのだが、これがまさに異常。吹き抜けなんて言葉が生ぬるいくらいの大空間に天井まで在庫が積んである。この空間の異 様さはちょっと言葉では説明がしにくい。国際競技レベルの体育館の天井まで棚があり、そこにこれでもかと組み立て式家具が詰め込まれている。単純に「見た ことのない空間」「商品の豊富さを客に叩き込むための空間」として、これほど強力な演出はない。スペース効率を考えたら確かにこういう在庫の置きかたはア リなのかもしれないが、そこを客の順路に組み込むということは、明確な意思がある。 最後に買い物のシステム。 メモに売場の商品番号をメモって、それを最後にセルフで在庫置き場からピックアップするか、あるいは専用の商品渡し場所で受け取るか、という感じ。やや客 に負担をかけるセルフ販売だ。確かにコスト削減に役立ってることはまちがいない。商品の陳列の手間を省けることは、相当な人件費節減に役立つ。在庫の置き 場所が決まっているのであれば、陳列の専門家を育成することもない。もっとも、このシステムの最大の肝は、細かい商品の陳列ではなくて、売場の演出のプロ フェッショナルを育てて、そういう人たちが「売場の演出」に専念できることにあると思う。在庫管理の必要がないから、演出だけに注力できる。 あとIKEAでは、客にセルフを強要することを「お客様に低価格で商品を提供するためのご協力」と位置づけている。これ、確かにそのとおりなんだろうけど、同時に客を共犯、ないし信者として取り込む有効な手段でもあると思う。 IKEAの強さの中核にあるのが、ほとんど無敵といえるほどの商品力にあることはまちがいない。しかし本当の強さの秘密は「なにひとつとしてムダにしな い」精神だと思う。コスト削減のための施策ですら「客の取り込み」に利用する。浮いたコストは客により買い物をさせるためにきちんと投資しているはずだ。 これは、IKEA側が言うような「すべてよい商品をお客様に届けるため」なんかじゃない。狡猾なくらいに徹底した「買わせるシステム」こそが IKEAという家具屋の最大の秘密だ。 ああそうだ。 あと、最後に生活雑貨のコーナーが待ってるんだけど、ここで、マグカップ29円とか皿1枚100円とかどうでもいいような安売りをしている。 冷静に考えてみれば、いまの時代、特にIKEAくんだりまで出かけていく客にとってマグカップが29円であることの価値はあまりない。これは「IKEAは よいものを安く売りますよ」という向こうのメッセージ。そして博物館気分でIKEAを見学に来た客に対して「これがIKEAのブランドイメージですよ」と いうことをアピールするための装置であると思う。 総合的に思ったこと。 よく「これからの時代、小売はいろんな意味でみずからの進む方向性を明示できるようでないと生き残れない」というようなことが言われる。まあ、そのとーり だと思う。もっとも、人はいつの時代だってふつうに生活して生きてるわけで「これからの時代」が特になにかいままでの時代と極端に違うというわけではない だろうから、全面的に認めるわけじゃない。 だけど、IKEAを見てると、みんながそう思うのもしかたないような気がする。しかしそれは時代が云々じゃない。もともとどこかの方向に特化したものは強いのだ。それに気づいたメーカーなり小売なりが「強くなった」からそう見えるに過ぎない。 日本のメーカーなり小売なりに明確に欠落していたのは「コーディネイト」という概念だと思う。もともとコーディネイトというのは個人がさまざまな場所から 「自分の好きなもの」を取り寄せて、自分の生活スタイルを確立するような行動のことを言うのだと思う。その過程で払わなければならない努力もまた楽しみの うち、というわけだ。生活というのは機能で、その見地に立てばデザインというのは「余剰」だ。つまり自己満足だ。そのことを知っている通人だけがコーディ ネイトを楽しめばよい。だからデザイン性の強いものは「高くてもいい」ということになっていたし、そこに金を払う人間もいた。自己満足であれば、高くても 問題じゃない。 人間にはもともとコーディネイトの欲求はあると思う。だからそれを提示してやれば飛び付く人間は多数いる。そして飛び付いた程度の人間に自分の意思にもと づくスタイルなんてない。だから与えられたスタイルで満足する。それはおそらくデザインの大衆化と卑俗化なんだろうけど、商売としては正しい姿だ。個人的 趣味としてはあんまり好きじゃないが。 ところで、ニトリの元ネタってIKEAだったんだね。あれ見てわかった。ニトリのあれは、日本的な妥協した姿だったわけだ。 IKEAが店舗を設置するためには巨大な敷地が必要。また、相当に広範囲の商圏が必要だろう。そういう意味では小回りの効く多店舗展開はできない。しかし それでも都道府県に一つくらいの範囲では展開できると推測する。するとニトリなんかは大打撃を食らうだろうなあと思う。しかしIKEAは、潜在的な需要を なんか巨大なブルドーザーかなんかで掘り進んでいるような印象があるから、むしろ既存のホームセンターや家具屋はそれなりに存続しつづけるのかな、という 気もする。 むしろあれ、真っ向からぶつかるのって無印じゃないかって気がする。実際は取り扱い品目に差があるからなんとも言えないけど。ただ、無印はもともと大型家 具はあんまり得意じゃない。出自がそもそもそういうもの扱う必要がない形態だったから、あたりまえっていえばあたりまえだけど。 いま伸びている日用品のチェーンってどこも共通のにおいがする。ユニクロ(まあこれはピークは過ぎてるけど)、無印、ニトリ、しまむら、ダイソーなど。どれもが「うちはこれ」という明確なコンセプトを持っている。 なんつーか。 そこでIKEAが登場ですよ、という雰囲気。 まちがいなく日本での展開は、成功すると思う。 まあこう考えると、ウォルマートが他国でコケる理由がよくわかるわけだけど。ウォルマートそのものが、世界中で通用するプライベートブランドを持ってるわ けじゃないからねえ……。扱ってるものが生活にべったべたなもの(スーパーだからあたりまえ)だから、特にプライベートブランドは作れない。世界展開って いうスケールメリットも別に活かせない。つか活かせるシステムを作ってないからコケるんじゃないだろうか。とにかく日本では単品大量展開とエブリディロー プライスは体質的にあわんです。わかりそうなもんなんだけどなあ……。 以上、引用おしまいー。 自分で貼っておいてなんなんだけど、特に目新しい要素ってないような気がする……。それなりにまとまってるとは思うけど、一般論に近いような。 前提としては、俺が小売に関して素人でない、というのは当然ある。あとは実際に「売る側」だというのが大きい。文中では「たかがコンビニ」と書いてあるんだけど、小規模だからこそ、客をうまく誘導できたかどうか、結果がよくわかるってのもある。家具のように、最初から目的が決まっていて、また単価が高くてそうおいそれと衝動買いできない商品と違って、コンビニの商品は、いってみれば「買っても買わなくても別にどうでもいい」ものが多い。新商品っつったって、リニューアルっつたって、このあいだのとなにが変わったんだよ、というまちがい探しみたいな状態だ。その状態で「売り込む」ということをしなければならない。だとしたら、そのわずかな差異を検出して、拡大解釈でもなんでもいいから客に「こういう理由でこの商品をおすすめするんですよ」と示すしかない。 てなわけで、上の文章ができる理由のいちばんめ。 まず、つねづね「客はどういう理由で商品を欲しがるのか」と思考する癖ができている、ということ。世のあらゆる商品に対して、消費者の立場ではなく「それを売る側には必ず思惑がある」ということを片時たりとも忘れないこと。たまたま偶然売れてしまった商品などない(実際はあるんだが、少なくとも「売れる」ことに関しては理由がある)。これが「成功した業態」となると、必ずやそこには「成功した理由」があり、それは偶然では片付けられない。偶然だと、いっときのブームにはなりえても継続性がないから。 いちばんめって書いたけど、それしかないんじゃね? 俺は小売の人で、しかも商品は本部のお仕着せのコンビニの人だから、実はマーケティング的な概念はあんまり必要がない。特に住宅街で固定客相手に商売をやってると、マーケティング的な考えかたで外側から固めるよりも、個々の客の欲しいものをじっくりと睨んでいたほうが、結果としては正解に近いことが往々にしてある。 ただ、あれかなあ。コンビニの仕事を長くやってると、仮説と検証という方法は、いやでも身に付く。上のテキストでも、ほぼ無意識に「IKEAという業態ができたのには、仮説がある」というのを前提にしてるっぽい。少なくともだれかの明確な意思がないとああいう業態ってできようがないと思うし。 いちおー「仮説と検証」という概念について説明しておく。あたりまえっていえばあたりまえのことなんだけど。 たとえば、最近やけに白飯が売れてるとする。 それには理由がある、と考える。 単純にいえば、白飯を買う客が増えたということだが、その増えたことにも理由があると考える。 可能性としてはいくつも考えられる。列挙してみる。 まず単純に客数が増えた場合。 次に、商圏内の人口は変わらなくて、なんらかの理由で白飯を買う客の比率が増えた場合。 なぜか日本中で白飯ブームが発生した場合。 あるいは逆に白飯以外の主食に対するバッシングがなんらかの理由で発生した場合。 ほかにも「可能性」だけでいえば無限にある。そしてその可能性のなかからデータによって現実的に否定されるもの(たとえば「客数が増えた」に関しては、実際に客数が増えてなければ仮説として却下することができる)を除外。あるいは「それありえないから」的なものも除外。 すると「ありそうな仮説」というのが浮かび上がってくる。もちろんそれが正解かどうかはわからない。 上記の例でいうと「商圏内にあった、競合となっていた弁当屋で白飯単体の取り扱いをやめた」という事実があれば、仮説を補強することになる。であるならば、弁当屋の大雑把な客数や食数を見積もって、そこから割り出される商圏内における「店で白飯を買う」ことに対する需要を考える。 そこで、需要めいっぱいまで発注するか、そこまで突っ込まないかは、発注者の判断による。 そして、実際に売れた数を見て「仮説が正しかったかどうかを検証する」。売れたかどうかも重要だけど、仮説が正しかったかどうかのほうがはるかに重要。もし仮説が正しかったなら、それは自分の判断とか観察が正しかったことになり、次につながる。 ということで、仮説と検証という概念を単純に言うのならば「物事にはすべて理由がある」というだけのことになる。上のテキストでいえば「IKEAがそのような売場であることには理由がある」というのが、すべての発想の始まりになる。逆説的に仮説のほうを推測してるわけだ。そして、仮説を導き出すために必要だったのが、小売業界全般に対する知識、ということになる。IKEAがふつうの家具屋とどう違うのかを知らなければ、この仮説は発見できない。 マグカップが29円というのも「安い」という事実の前で立ち止まって終わりになってしまいそうになるんだけど「29円であることには理由がある」と考えれば、疑問はいろいろ見出せる。なぜ29円なのか。IKEAに来る客そんなに安物に飛びつくのか。そんな貧乏なのか。いやいやそんなことはないでしょう。こいつら絶対ダイソーよりロフトのほうに価値見出すだろ。駐車場に並んでる車を見たって、そんな安い車ねーよ、みたいな。 考えながら書いてるから、話が二転三転するんだけど、してみると、上のテキストの肝になってるのは、俺の考えかたにしみついた「物事には必ず理由がある」というものらしい。物事は、疑おうと思えばどこまでも疑うことができる。そして、目の前にある物事の「特殊性」について疑うと特に効率がよろしい、ということなんだと思う。 以上「着眼点」については、そんな感じ。重要なのは、目の前の事実をそのまま受け取らず「なぜなのか」を掘り起こし続けるいい意味での猜疑心。そして「なぜ」に対して解答を与える知識の裏づけ。どんな商品にしたって「売る側の思惑」は必ずある。常にそのことを忘れない。 なんのビジネス教科書だこれ。昨日店に入荷したトヨタ式がどうこうって本に似たようなこと書いてあったぞ。カイゼンだカイゼン。 で、文章の技術のほうなんだけど、俺の書く文章というのは、原則悪文です。これは客観的にみても、どうひいき目にみても、変えられない事実だと思う。チャットでは「センス」という話が出たけど、俺にもし固有のセンスがあるとしたら(以下「ひいき目にみて」という前置詞が常に付くと思ってください。以下は、自分の文章をまるで他人が書いたように判断しながら書くんですが、なにしろ判断者が自分だし、俺は判断者としてはあまり適格ではないと思う)、せいぜい比喩的表現に見るべきものがあるくらいで、あとは大したことないと思う。 ここでは話を比喩的表現に限定して進めます。でもこれって、使うにあたって向いてる人と向いてない人がいるからなあ……。たとえばうちの奥様なんかだと、経験不足のせいで文章そのものはこなれてないですが、明解でわかりやすい、またリズムのまったく狂っていない文章を書きます(これこそは天性の資質のひとつだと思う。ド素人のなかに、たまにこういう文章を書く人はいる)が、比喩は使おうと思っても使えないそうです。なぜならば「それは、それ自体で、それ以外のものじゃないからだよ」だそーですが。たとえば、文学的には「闇の黒を混ぜ込んだような不吉な赤みを帯びて佇んでいる林檎」という表現は成立すると思う。これは「林檎」というものの置かれた場所、雰囲気、背景込みの描写にならざるを得ません。でも、まゆみさんに言わすと「だって林檎は林檎じゃん。林檎そのものは不吉でもなんでもないし、どこにあったって林檎じゃん。あんたの書くことおかしいよ」ということになってしまう。 比喩的表現を多用する人というのは、あるいはそれが得意な人というのは、いつか日記に書いたような気もするんだけど「世界に存在する無数の事象と、自分だけの秘密の契約を持ってる人」というような感じになるかと思います。目の前に海が広がっていたとして、その海の景色、におい、天候、そんなものを含めて、自分の目の前に広がる「海」という現象に無数の物語を見出せるような人。表面にあらわれた事象の背後に、連綿とつながる人間の物語を見出せるような人、っていうことになるでしょうか。汎神論的っていうか。で、そういう感受性が根底にあって、あとは読んだ文章の数勝負じゃねーかな。気に入った表現があったら、てきとーにパクっときゃいいんです。無意識の底に沈めて、いつかその表現が不意に浮上してくるその日まで。 で、「勢い」のほうについては、確かにこれは(たぶん)俺のテキストのウリのひとつなんですが、これ、その人のキャラクターと、あとは技術の問題だと思う。技術のほうは、これもパクリです。ネットうろうろしてて、おもしろそーな表現、自分がウケた表現があれば、まねすればいいんです。ひどいなこれ。 人がどこに「勢い」を見出すかは難しいところですけど、単純にいってエクスクラメーションマークでも増やしておけば、そりゃ勢いは演出できますよね。 例文。 「僕は昨日、おでんの具を買いにスーパーまで徒歩30分かけて行った」 改変。 「僕は昨日! おでんの具を買いに! スーパーまで、徒歩で30分かけて!!行った!!!」 もうちょっと改変。 「僕は昨日おでんの具を買いにスーパーまで徒歩で!徒歩で!!30分!!行きまくりんぐwww」 で、文章の構造をまるごと変えて、さらに勢いを演出。 「近所のスーパーまで徒歩30分! 最悪! すごい近所にスーパーない! もうやだ! 死ぬ! 徒歩30分で俺死ぬ! でもおでん食う! おでんがつがつ食う! だから歩く! でも帰りに道端で死ぬかもしれない。徒歩30分だから!」 こうなるともう文章と呼べるかどうか疑問ですけど。 まゆみさんが俺のテキストを指して「それにしてもあんたの文章っておおげさだよね」というのは、たぶんこういう部分を指してるんだと思います。俺は、おもしろければ誇張はありだと思ってるし、なにより自分が強く感じたことというのは、表現するうえで強調しておいて損はないと思うんです。 最後の文章だかなんだかわからないものに関しては、もうちょっと文章らしくすると、文脈にもよりますけど、以下のようにも書けます。 「おでんを食べたいと思った。しかし満足に具材を揃えられるような規模のスーパーは、徒歩圏内にはない。ふだんなら面倒ながらも車を出して、ということになると思うのだが、こんな日に限って、車は妻が横浜まで行くのに使っている。戻ってくるのは深夜になるという。覚悟を決めた。30分。歩けない距離ではない。それが昨日の話だ」 まゆみさんに言わすと、こうしたことはすべて事実の羅列だけで表現できるはずのことであって、その前後の登場人物の心理までは説明することはない、ということになります。 あと、センテンスを極端に長くするか、あるいは逆に短くするか、倒置法を多用するなどの方法によっても勢いとかは演出できると思います。改行の有無とかも重要ですね。 ただ、これはあくまで技巧ですから、特に意味もなく用いると、逆効果を招くことが往々にしてあります。結局のところ、そうした部分も含めて、まずは「読む」こと。そしてまねすることなんじゃないかなーと。別に書き写せというわけではない。自分の好きなテキストの人の芸風をまねてみる。 たとえば、お母さんの作ったおでん(またかよ)を食おうとしたら、蝿が入っていた。ありえねーみたいな内容を書くとして、それはどのようにでも書けるわけです。たとえばまゆみさんならば、 昨日、母ちゃんがひさしぶりにおでんを作った。やっぱり家のおでんがいちばんおいしいと感じる。 期待して待つ。 ようやく出てきた。さあ食べようと思ったら、たまごの上に蝿がいた。 ありえねえ! 母ちゃんに抗議した。 「そりゃ蝿だっておなかが空いてるのよ、きっと」 そういう問題じゃねえ。 で済む文章が、俺が書くとこうなります。 コンビニでおでんを作り自分でも作ってみて、さらにはほかの食堂とかでもおでんを食ってみてだ。やっぱりというかなんというか、自分の家で子供のころから食ったおでんよりもうまいと感じるものはない。これはもう家庭の味とかそんななまやさしいもんじゃなくて、一種の刷り込みなんじゃねーだろうか。世のすべてのとりあえず男つかまえとけ的な思考法をしがちなお嬢さん方に、特に強く伝えておきたいが、煮物の腕だけは鍛えておいたほうがいい。肉じゃがに引っかかるアホが多いってのは、都市伝説じゃない。 で、昨日ひさしぶりに母親の作るおでんを食う機会があった。 そりゃまあ、ひさしぶりですからね。期待もします。期待っていうほど強い感情じゃなくても、やっぱ家っていいなとか、まああるわけじゃないですか、そういう感情って。煮物のにおい、特に醤油混じりのやつって、特に関東人にとっては郷愁の原風景みたいな部分ってありますよね。 そんで、食卓についてだ。36歳にもなって。おでんを待ってるわけですよ。 さー、出てきたいただきまーす。 で、箸を取ったら。 なんかいるよ玉子の上に。フライ・オン・ア・エッグっすよ。蝿。まじくっきりと蝿。そこが俺の場所だみたいに蝿いるんですよ。でも死んでるけど。 「あの、おかーさま、蝿いるんですけど」 いちおー遠慮がちに言ってみました。36歳ともなると親子といっても、それなりの礼儀というものはわきまえます。作ってもらってる側ですから。 おかーさまは笑顔でおっしゃいました。 「そりゃ蝿だっておなかが空いてるのよ、きっと」 ……平然とおっしゃりやがりました。はい。 なにその本質を思いっきりずらしつつなかなか突っ込めない堂々とした言い訳! 俺が言いたいのは、そういうことじゃなく! 気がつかなかったんですか! 蝿乗ってることに! キッチンからここまで持ってくるあいだに乗ったとは言わせねえ! しかもそこ突っ込んだら「蝿の身にもなってごらんなさい。私はあなたをそんな思いやりのない子に育てた覚えはない」とか平然と言い張るわけだろ。 子供じゃないので、そんな言いかたにはごまかされないのです。 しかし、悲しいかな、この年になっても、子供は子供なのです。 ……まあ、そんな部分もひっくるめて、なんというか「母の作るおでん」というものを堪能してきましたよ。身内ってそんなもんかもなー。好きというわけでもなく、さりとて嫌いというほどでもない。「ただそのようにあるもの」として、あり続ける。永遠にそれは失われないような気がする。まー、それこそは幻想なんだけどさ。 でも、そういうもんなんだな、としみじみと、必ずしも積極的な意味合いだけじゃなく、しみじみと思わされたおでんの夜でした。 事実としては、まゆみさんが書いた(俺が勝手に書いたんだけど)文章ですべてです。そして、その事実の背後にあるものも含めて、すべては、文脈によって、要するに「語られざるエピソード」として表現されるべきだ、というのがまゆみさんの考えです。てゆうか、「GOSICK」とか読んでるとまさにそんな感じですけどね。あれは説明不足すぎると思う。わかる人だけわかれ、みたいな。 そこをすべて説明してしまうのが俺のやりかたです。事実に対して圧倒的な量の「俺の解釈」を施すことによって、俺のテキストはどんどん長文になっていく。また、あらかじめ前半で「肉じゃがはおふくろの味」的なことを挿入することで、一種の情緒的雰囲気を持つようにもする。俺自身は意識して書いてるわけではないですが、方法としてはそうなってると思う。 「文は人なり」と俺はチャットのなかで発言しましたけど、方法って結局無限にあるんですよね。俺が書いたやりかただと、情緒を「浮かび上がらせる」という方法になりますけど、もっと俯瞰しきってしまう方法もあるわけで。「蝿もおなかが空いてるのよ」という母の表情は、ほんの少しだけど、いたずらっ子のような笑みを浮かべていた、とか挿入してもいいわけですし。それに対してマジギレする語り手がいてもいいし「結局これか、母さんは」とか反応すれば、そこに適度な温度と湿度がある愛情を表現することもできる。 なんにせよ、まずは「書きたい内容」を明確に定めたうえで、それに対する自分の態度を確定、あとは読書量に裏づけされた「方法」を採用することじゃないかと。もちろん読書量なんか大したことなくても、なんとなくちゃんとできてしまう人もいますが、それこそは天性の才能ってやつですから。 ちなみに無駄な表現をとことんまで嫌うまゆみさんは、小説を読んでも「無駄な部分」ばかり探しています。というか気になってしかたないらしい。そして「表現」にすべてを賭ける俺は「上手な表現」ばかり探しています。 なんというか、そういうことなんじゃないかなーと。 なんか質問ありましたらまた答えますんで、コメントででもどーぞ。参考になればいいですけど。 11131文字ってなんだよこれ! 原稿用紙30枚分くらい!? ありえねー……。 |
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2007/04/28 17:29 カテゴリー: MK2がなんか書いた | 個別ページ | コメント (0) | トラックバック (0)
おでん永久機関説というのをご存知でしょうか。
おでんを作る。
食べる。
鍋に隙間ができるので、具材を補充します。
煮ます。
食べます。
鍋に隙間ができるので、具材を補充します。
つゆが混濁してくるので、新しいつゆを作って、前からある具材を投入します。
煮ます。
食べます。
おでんに飽きます。
しかしすでに買ってしまった具材を放置するわけにもいかず、さらに食べます。
そのうち、この世界にはおでん以外の食いものはないような気がしてきて「おでんのある生活」に順応してしまうのです。つまり、主食がおでんです。
パスタとかが遠くに思えてきます。
それは1月の半ばに始まる物語。おでんとともに過ごしたあの季節を僕は忘れない。十年経っても、きっといつまで経っても忘れられないおでんの季節。あのころ、僕らはちくわぶだった。白滝の小さな結び目。くずぐずに煮崩れた昆布。メークインが根性なく鍋の底で崩れている。アルミ製の黄金に輝く新しい鍋のなかに、僕らの時間が溶けていく。
「家のなかがダシくさいね」
「うん。きっと明日もそうだよ。だって、僕らはおでんだから」
たぶん、外は嵐。僕らを守るのは、築20年は確実に経過している、外壁が黄色いこの趣味の悪いアパートの薄い壁だけ。暖房も満足に効かないこの部屋のなかで、ストーブの上で煮えているおでんだけが、僕らのすべてだった。
そして僕らは気づく。
具材買うのやめればいいんじゃん。
そもそもの原因は、おそらくまゆみさんにあると思うのです。責任の所在について議論するとまゆみさんには絶対に勝てないので、あんまりこんな話はしたくないのですが、まゆみさんは、とにかくおでんの具材が大好きなのです。特に白滝とちくわぶとこんにゃくとはんぺんと大根と昆布とさつま揚げが大好きです。これでほぼおでんの主要具材は完全に網羅しているといえるでしょう。おでんはバランスが大事です。俺はがんもと玉子さえあればおでんはそれでオッケーだと思ってるので、俺におでんを作らせると、鍋のなかががんも地獄となります。それはひどいありさまです。まゆみさんはいろいろ食べるのですが、それでも優先的にさつま揚げがなくなったり、ちくわぶがなくなったりします。そこで具材を買い足すのです。これの繰り返しでおでんはいつまでも続くのです。
俺は言います。
「こんなこと……長く続くはすがない。まゆみさん、いつかは終わりにしなきゃだめなんだ」
「あたりまえじゃん。あんたなにいってんの?」
まゆみさんの答えはいつでも明快です。よく竹を割ったような気性、という表現がありますが、まゆみさんの前では竹は最初から割れています。手を出すにしても、爆砕点穴(通じるのか、このネタは)に近いような雰囲気で、対象(というか俺)を粉々にして終わりです。そしていずれにしてもまゆみさんはちくわぶを買うのです。
ちなみに冒頭のテキストは、「Kanon」というエロゲの、一日が始まる前の、白い画面に流れるテキストを頭のなかに思い浮かべながら書きました。おでん。おでんを食べている。そして最後は「おでん以外の食べ物がどうしても思い出せない」とかで終了です。そしてエンディングでは「春になって、ずっとおでんだったらいいのに」で終わります。
よくねえよ。
2007/04/28 17:25 カテゴリー: MK2がなんか書いた | 個別ページ | コメント (0) | トラックバック (0)
俺は今日からまゆみさんをヴィクトリカさんと呼ぶことに決めました。嘘です。決められません。「今日のヴィクトリカさん」とかありえないタイトルで日記を書いた日には、またお得意のきちがいブーストを何段階にもわたって多段発動させた妄想日記がスタートしたと思われるのがオチです。
「GOSICK」という小説を知らないとなにがなんだかぜんぜんわからないネタからスタートしてみました。別にこれは、俺が「まゆみさん萌えキャラ化計画」という信じられないものをいきなり発動したわけではなく、まゆみさんの性質のある一部がヴィクトリカに極めて近いということです。
たとえば、俺とまゆみさんは、中距離の目的のあんまりない中途半端なドライブに出かけることがよくあります。なにをやっているのかというと、しゃべっています。その内容は、まあどうでもいいような日常的な会話も多いのですが、まゆみさんはそういう会話にはすぐに退屈します。頭使わないからだそうです。まゆみさんは、以前の日記にも書いたとおり「なんにもない」の国から来た人なので、頭を使っていないと生きてる実感がなく「生きてても死んでてもあんまり変わらない」という世界に陥ってしまうらしいのです。日々ブチ切れた妄想で空疎な充実感で満腹の俺とはえらい違いです。
それでまゆみさんは俺に要求します。
「おもしろい話をしてくれ」
これほど酷な要求もそうはないと思います。これ、芸人に向かってカメラを向けて「はい、ここでボケて」といきなりやるのと同じ状況です。まゆみさんの言う「おもしろい話」とは、つまり「頭を使う話題を提示せよ」ということです。
もしまゆみさんがちょっと頭のねじが数本飛んでて「えへへー、わたしちょうちょ好きー」とか真冬に言っちゃうようなタイプならば「頭を使う話題」というのも「ライオンさんと虎さんでは、どっちがケンカが強いでしょうか」とかいうので充分なのです。そしてこの質問に対する解答は「実はしろくまさんがいちばん強いのでしたー!」「えーずるーい、しろくまさんどこにもいなかったのにー」と続きます。なにこの5歳児の描いたお花畑空間。しかしもしまゆみさんにこんな質問をしてしまったら、返ってくる答えは「実際にライオンと虎が戦った実例があればそれが答えだろう。しかし、偶然の要素もあるから、ある程度実例が多くないとわからない。そして私はその知識がないから答えられない」で終わってしまいます。違う! そういうことじゃないんだ! そういうぐうの音も出ないようなこの世界の終わりみたいな解答を求めてるんじゃないんだ! とかいうと今度は「じゃあどんな解答を要求しているというんだ。私は私の考えに基づいてしか答えられない」と来て、なんかこう、部屋の隅に正論で追い詰められるような心細い思いをするのです。ちなみに上の虎とライオンの質問に対しては、まゆみさんの機嫌次第によっては「やる気のあるほうが勝つんじゃね?」とかいうどうでもいい答えが返ってくる場合もあります。
しかもまゆみさんの明晰にして基本的に関心の範囲が狭い頭脳は、ほとんどの話題に対して「それはこうなっていると私は思う。しかしそれ以上は興味がない」という論法で答えを弾き出してしまうのです。
俺は思うのです。
頭を使って会話をするのならば、いちばん有効な手段は議論です。
そして、議論というのは一面で「芸」でもあると思うのです。
だいたいの問題において、結論というのはわかりきったあたりまえの正論だったりします。あえてありえない結論をおいて、そこに辿りつくまでのアクロバットちっく☆な論証を楽しむのもありですが、そういう会話は往々にしてネタになってしまい、まゆみさんとしてはあんまり頭を働かすことができません。であるならば、正論に辿りつくまでさまざまな仮説や論証を経て、きれいなかたちでまとめるのがいちばん「おもしろい」はずです。この場合、俺が仮の反論者になればなお盛り上がる。
はずなんですが。
最近、非モテをめぐる問題についてまゆみさんにあれこれ聞いてみたのです。いずれテキストとしてまとめるつもりなんですが、前提をおかずにまゆみさんに「で、この問題について、根本的な解決というのはありうると思う?」と質問したとします。
「自分自身でどうにかするしかないんじゃない?」
終わりです。
いくら自己責任論者といっても、これはあんまりです。
よく聞いてみると、この結論に辿りつくまでの過程はまゆみさんの内部にあるのです。ちゃんと証明もできるのです。それをいま書いてしまっては、この先テキストにしたときに同じ内容を繰り返すことになってしまいますので、いまはやりません。それだけで日記一日分くらいの内容にはなるのですが、まゆみさんにとってその内容は、すべて省略可能なことにされてしまうのです。だから、一足飛びに結論まで到達してしまう。その過程を説明することはまゆみさんにとっては「余計なこと」で、頭を使う必要はまったくない。だから、つまらない。
もちろん説明の過程で反論を加えることは可能なんですが、もともとが建築物のような頑強な論理性でものごとを考える人です。つまらん反論など一言で返されて終わりです。そして、次のセリフは、
「もっとおもしろい話ないの?」
これじゃ、謎をご所望のヴィクトリカと同じ状態です。言語化を頼んでいやいやしてくれるあたりまでひっくるめて、まったく同じ状態です。勘弁してください。
しかし、よく考えてみると、これはおかしな話なんです。
なにしろまゆみさんは、ただ単に「頭を使いたいだけ」なんです。だとしたら、議論はゲームでいいはずです。極端な仮説をたてて、屋上屋を積み重ねるような空疎な議論だとしても、そこで頭がフル回転するのであれば問題はない、ということになるはずなんです。まゆみさんの駆使する論理が頑強なのは、根底に「自己責任」という頑強な砦を築いておいて、そこからすべてを語り起こすからです。もちろん自己責任論自体を論証できないと、構築された論理は弱いものとなります。まゆみさんは、その点でも抜かりはありません。このへんの話は、最終的には常に「自分はどのようなしかたで存在しているのか」みたいな疑問に行き着くしかないんですが、まゆみさんはこのへんをさんざん考えつくしているわけです。
まゆみさんは「頭を使いたいだけ」と言っているが、その実やっていることは違うのではないか。
そのへんを聞いてみました。
まゆみさんはこう答えました。
「その立場に自分をおいて考えるんだよ。いちばんひどい状況と、いちばん効率がいい状況と」
つまり、まゆみさんにおいて、考えることはシミュレーションと同義ということになります。これでは極端な仮説など立てようがないし、自分から縁遠いことには興味の持ちようがないです。
まゆみさんは、ずいぶん長い年月、ただ自分を守るためだけに「まちがわないこと」を続けてきました。つけこまれないために、負けないために。まゆみさんにとって「考えること」はつまり「自分を守ること」とかなり近い位置にあったのではないかと思われます。目的がそうである以上、できれば現実的なことは本来「考えたくない」のではないか。だれだって無条件で安全なほうが気楽なはずですから。
まゆみさんは「自分の頭のよさは、現実的にまったく役に立たない」とよく言うのですが、頭のよさそのものは、なんにおいても役に立たないということは本来ありえません。それだけでアドバンテージです。しかしそれでもまゆみさんは「役に立たない」という。だとしたらそれは「役に立たせたくない」のではないか。
結果としてその「頭のよさ」は自分を救うために役には立っていた。しかし本来ならばそんなものは必要なかったのではないか。いろんなことを思考できる自分の頭脳を、自分から切り離してテーブルかどこかの上に放り出して「こんなもの」という思いで眺めていたのではないだろうか。
だとすれば、よほど現実と切り離された抽象論でもない限り、まゆみさんは原理的に「話題」としては楽しめない。楽しんでいるように見えても、それは明日の自分を守るためのシミュレーションにしかならない。
まゆみさんはナンプレというパズルが好きです。
ただ、頭脳を退屈させないためだけに、えんえんとそれを続けます。
それは、だれに役にも立ちません。
なんの意味も持ちません。
それでもまゆみさんは、ただ「動き続けるしかない」頭脳のために、えんえんとそれを続けるのです。
このテキストに別に結論はありません。
俺はまゆみさんに語りかけているわけではなく、単に「そのような状態にある人間」について描写しているだけだからです。まゆみさんの時間は現在進行形で進んでいる以上、そこに結論のつけようはないのです。
読む人がいて、その人たちを楽しませるためにテキストを書く、というのが俺の基本的な立場なのですが、あえてその原則を踏み外すとしたら、結論めいたものを書くことはできます。
もう、まゆみさんは自分を守るために戦う必要はないのです。
あとは、好き放題、自分の頭脳を使って、遊んでもいいのです。
ちなみに、まゆみさんが日記を更新するという、晴天霹靂、乾坤一擲、天地開闢、神鳴轟くような大奇跡が発生しました。いちおうリンク貼っておきますが、本人はめんどくさくなって途中で放り出したようです。以下次号みたいな書きかたになってますので、あらかじめご諒承のほどを。
http://munimunigyafun.cocolog-nifty.com/blog/2007/01/20070120.html
2007/04/28 17:25 | 個別ページ | コメント (0) | トラックバック (0)
俺らの家のある場所は、神奈川県のとある半島です。その半島のなかを車でぐるぐると移動して、生活しているわけです。最寄のドトールまで車で15分、最寄のホームセンターまで車で30分。とにかく車がないとまったく生活できません。
そういう場所ですので、大規模な繁華街などもありません。
もともとは横浜の都心部で生活していた俺やまゆみさんにとっては、夜も8時を過ぎると人通りのなくなる商店街というのは、それ自体が一種のファンタジーですらあります。そういう場所ですので、浮浪者なんてものを見かけることもほとんどありません。
ただ、ひとりだけいます。
車で出かけるたびに、ほとんど確実に毎回見かけるその道のプロの方がいるのです。
都心部でコンビニをやってたころは、よくも悪くもとにかく浮浪者というのは、そう遠い存在ではありませんでした。やつらよくコンビニに来るのです。人相風体がものすごく特殊ですから、記憶にも残りやすい。残したくなくても勝手に残るのです。
以前、横浜で店長をやってたころ、常連の浮浪者の方が数人いたのですが、店では「あの浮浪者の人」というようにも呼びにくく、とりあえず便宜的に、A君、 B君、C君と呼んでいました。なぜそうなったのかはわかりません。そして彼らの職業についても「浮浪者」ということではなく「都市生活のスペシャリスト」とか「スーパーアウトドアーズ」とかそんなように呼んでいたような気がします。それでは長いということで、いつしか、その道のプロという意味合いで「本職」と呼ぶようになりました。そしてそれでは愛想がなさすぎる。ここはもっと親近感をこめて「本職さん」と呼んでみてはどうか。
そんなわけで、俺とまゆみさんは、浮浪者のことを「本職さん」と呼んでいます。
そして、この半島で、たった一人、車で出かけるたびに必ず見かける本職さんがいるという話です。
その本職さんは、えんじ色のよくわからない上着を着ています。近くで見ればわかるんでしょうけど、見たくもないし、見たところでそれが生地であるのか、あるいは彼の皮膚が進化した一種の装甲のようなものなのかわからないかもしれません。というのは、彼は、夏でも冬でも同じ服を着ているのです。考えられることは、彼が寒さに極度に強いのか、あるいは暑さに極度に強いのかのいずれかなんですが、もしそれが彼の皮膚であるのだとしたら疑問は氷解します。
外見は、究極まできわまったジーザスクライストスーパースター風ではないです。浮浪者のなかには、たまに人間というよりはなんかの樹木のように数千年の時を経たような風格と汚れをまとった人がいるものですが、そこまでは到達してません。ただ、風景のなかで、彼だけが水墨画のような薄墨のような、ぶっちゃけ小汚ねえ感じがすることは否定できません。
彼の速度は遅いです。人間はだいたい時速4キロほどで移動しているといいますが、彼はおそらく時速400メートルくらいです。荷物が多いのです。なにが入っているのか想像もつかない不思議なゴミ袋を4つか5つくらい持っています。いや、引きずっています。映像に関する記憶力が異常なほどいいまゆみさんは、本職さんを見るたびに、
「あ、ゴミ袋ひとつ増えてる!」
「減った!」
などと綿密にチェックしています。ほんとになにが入ってるんだろう。俺が思うに、布団はまあ確実として、着替えはないと思うんですよ。いつも同じもの着てるから。ただ、なんか新しい生命は発生してる可能性が高いと思うんです。どんな過酷な環境でも生きられる新種の乳酸菌とか。腸まで活きて届くどころか、排泄されて浄水場で消毒されてもまだ生きてるような。一種の環境汚染っぽい乳酸菌。
それで思い出しましたが、以前、まゆみさんがバイトをしていたビルのそばで、浮浪者がなにかを煮ているのを目撃したことがあるそうです。基本的に物見高いまゆみさんですので、ついなにを煮ているのかと思って覗き込んだそうです。
煮ているのは服でした。
まゆみさんは、顔面蒼白になりながら思いました。
「煮沸消毒!!」
すぐに逃げたそうです。
で、半島在住の本職さんなんですが、ほんとにどこにでもいるのです。いちばん多く見かけるのは、畑のまんなかです。といっても、別に収穫に満足しながら空を見上げるファーマーのように存在しているわけではありません。畑のまんなかを突っ切る国道の歩道に座っているのです。なんかハウスシチューのCMかなんか思い出した。畑のまんなかに浮浪者が立って「おーい」とか手振ってんの。場面変わってログハウスとかのなか。シチューかなんかほおばりながら「収穫の秋。自然はうまい」とかゆってる。でも浮浪者。
地に広がる一面の緑。四季おりおりの野菜たちのなかに佇んでいる浮浪者。どっちかっていうとレアなイメージです。とりあえず競争相手がいないので、あんがい生活しやすいんじゃないでしょうか。ゴミだって漁り放題。コンビニやスーパーの生ゴミだって、距離を移動する覚悟さえあれば、荒らされていない新品が手に入ります。戦わなければいけない相手はカラスくらいのもんじゃないでしょうか。
このあいだ、ついに本職さんがこちらを個別認識しました。
一日に何台となくすれ違う車のなかで、俺らのサンバーたんを記憶してしまったらしいのです。畑のまんなかの一本道。向こうがわから本職さんが歩いてきます。1on1 at 畑。本職さんはあきらかに「あー、いつもの」という目でこちらを見ました。まあ、すれ違うたびに「本職さん発見!」と指さしてたら、そりゃ覚えられもしますね。
そんなわけで、俺らは明日も車で移動します。ゲーム感覚で本職さんを探しながら。元祖ゲーム世代。しかしこの世界はゲームではありません。この濁世を、本職さんも、そして俺たちも生きています。そんなおおげさなもんじゃありません。今日もなんだかわからなくなりました。そしてまゆみさんはほとんど登場していません。
で、タイトルをなんにしようか迷っています。読んだ方はすでに結果を知っているわけですが、「まゆみさんと浮浪者」だけは避けたいと考えています。
2007/04/28 17:23 カテゴリー: MK2がなんか書いた | 個別ページ | コメント (0) | トラックバック (0)
食事中の方は読まないほうがいいです。
本日、俺は足がくさかったです。
俺は、世界中に向けて生きててごめんなさいと謝罪をしなければならないくらい、足がくさいです。いくら強調しても表現できない、というくらいに足がくさいのです。なんかの病気なのか?と聞かれたら「はい。足がくさい病です」と答えるしかないくらい足がくさいのです。
以前にも書きましたが、俺とまゆみさんは、スーパーの惣菜コーナーでてきとーにおかずを買って、車のなかでくつろぎながらごはんを食べるのがけっこう好きです。大型スーパーというと混雑しているイメージがありますが、平日の昼間ともなると、上層階のほうはほとんどがら空きなので、変な人たちが車のなかで惣菜パーティーを開いていたところで別にとがめられることもないのです。
俺の車は、スバルサンバーという軽貨物車です。名前はサンバーたんです。貨物というと安い印象があるのですが、スバルサンバーのそもそもの価格設定が高いうえに、貨物車というのは想像よりは安くないのです。同じ予算で快適装備満載の居住性の高い軽を買うことは可能だったのですが、貨物車の場合、後部座席を完全フラットにできるのです。貨物を積むためにできてるのだからあたりまえなんですが。
子供のころから、車のなかを部屋のようにして使いたいという願いがあった俺にとって「完全フルフラット」は外せない条件のひとつでした。
そんなわけで、サンバーたんの後部座席にはじゅうたんがひかれていて、布団なんかもあって、そこでごはんを食べつつのんびりすることもできる、というわけです。
今日も「GOSICK」という小説を買いに行った帰り道、スーパーで惣菜買って車内で食おうと思ったのですが、俺は気づいてしまいました。
「ごめんなさいまゆみさん。今日は車のなかでごはんを食べれません」
「なんで?」
「なぜなら俺の足はくさいからです」
まゆみさんは、俺がすべてのセリフを言い終わらないうちに断言しました。
「やめよう。死にたくない」
車のなかに悲痛な沈黙が満ちました。
やがてまゆみさんは、静かに、やがて徐々に激しく、よくわからない実況中継を始めました。以下は、ほぼその内容を再録したものです。
「おまえ、ついうっかり、で自分の妻を殺していいと思ってるのか。自分の足のにおいに自覚がないとは言わせない。自分の妻にぜんそくがあることを知りながら、靴を脱ぐ。明確な殺意の表れだろう。それを未必の故意というんだ。わかってるのか!」
どうやらまゆみさんは俺の足のにおいで死んでしまったらしいです。
そして俺は警察で取調べを受けているらしい。
「すみません。うっかり。ついうっかり」
「うっかりで済むなら警察はいらないんだ。わかってるのか!」
次は、舞台は変わってテレビかなんからしいです。
「容疑者がオーナーをやっていたコンビニのパートの方に話をうかがいました」
リポーターの声。
そしてそれに答えるパートの人。
「すごいにおいだったのよねえ。靴の上からでもわかるのよ。でもねえ、オーナーでしょ? やっぱり私も言えなくてねえ。奥さんも同じだったんじゃないかしら? 苦労してたんじゃないかしらねえ……」
「容疑者の想像を絶する足のにおいと、無神経ぶりがうかがえます。次に、容疑者が飼っていたうさぎのでかすけちゃんに聞いてみました」
クローズアップされる、ネザーランドドワーフに似ているよくわからない雑種のうさぎ。言葉に、変な英語訛り(本人は「うさぎ訛り」だと言い張っている)がついている。
「えむけーつーさんの足はひっどいでーす。くっさいでーす。でかすけちゃんはきれい好きなのに家を掃除してくれませーん。もっとひどいのはそのくっさい足をでかすけちゃんの家に押し付けることでーす。ひどいでーす。死んでいいでーす。あとペレットくださーい」
リポーター、声を潜めて、
「容疑者の歪んだ人格と、自堕落な生活がうかがえます」
こんな感じでまゆみさんはえんえんと実況中継を続けました。
そこまで俺の足は凶器だったんでしょうか。
で、まったく関係ないのですが「まゆみさんになんか本を読ませよう月間」がスタートしました。読ませよう第一弾は、くわねさんがおすすめしてくれた箒木なんとかって人の「薔薇窓」です。まゆみさんは小説を読むにあたって構成マニアというわりと変わった人種なんですが、その前提に立ったセレクトです。
今後、まゆみさんにいろんな本を読んでもらって感想を言ってもらい、それをここに書いていく予定です。次の作品は桜庭一樹の「GOSICK」です。
「エロゲのなにがむかつくって、必ず幼なじみがいることだよ。そんな仲のいい幼なじみいねえよ! てゆうかそもそもそんなに幼なじみいねえよ!」と変に憤っているまゆみさんに、あえてありえなさげなセレクトでおすすめするというのも考えてます。護くんに女神の花束をとかゼロの使い魔とか(自爆)。
構成マニアで、女の子の好みがやかましくて、文章が簡潔で上手でないと「読めない」の一言で切って捨てるような人に、あえておすすめしてみたい作品があれば、コメントとか書いていただけると嬉しいです。いまのところ、西尾維新と秋山瑞人がだめなことはわかってます。西尾維新は「(ストーリーにとって)意味ない文章ばっかり。これ3分の1でいいじゃん」という理由でだめで、秋山瑞人は「語りすぎで鬱陶しい」という理由でだめです。
俺としては「僕は妹に恋をする」でも読ませて、まゆみさんのキレっぷりを鑑賞したいです。
あと「まゆみさんにエロゲやらせよう月間」とかもあります。てゆうか同時並行開催中です。ら~じPONPONとかはすすめないです!(てゆうかすでにふつうに入手困難じゃね?)
2007/04/28 17:22 カテゴリー: MK2がなんか書いた | 個別ページ | コメント (0) | トラックバック (0)
ああもうコピペ嫌いー。
ところで俺3日くらい風呂に入ってないような気がするんですが。
もういいじゃん不精ヒゲは男の勲章。
働きたくないでござる!
働きたくないでござる!
働きたくないでござる!
絶叫しても働くしかないのでした。
てゆうか仕事中に日記の更新なんてやってるような優雅な状態だったら別に働いていてもいいんじゃないか。
いやそういうことじゃないんだ! 重要なことは! いつでも好きなときにエロゲが起動できるということ! いつでも好きなときに虹裏見れるということ! 寝たい!
2007/04/28 01:39 カテゴリー: MK2がなんか書いた | 個別ページ | コメント (1) | トラックバック (0)
トラバ先の文章に対する直接の言及というより、非モテの問題に関して俺がメインで発言したのがナツさんとこなので。つーかまあ、大筋でナツさんの言うことにそのまま同意なんだけど。
ちょっと時間ができたので、最近ナツさんとこでいろいろコメントしたりなんだりしてる非モテの問題についてちょっと書いてみようと思う。やっぱ他人様のところでコメント書くのだけでは限界がある。あと俺が勉強できなさすぎて、どうも人に迷惑かけてるような気もするし。てゆうわけで、今回はまゆみさんにまったく関係しない話題です。ちなみに非モテの問題についてまゆみさんに説明したんですが「否定の先になにもないのであれば、それは意志がないということ。つまり、非モテという人々はこの世界に存在していない」で終わりました。ふだん人前で考えてること言わないわけだよ。
ちなみにこの文章は、どっちかっていうと自分の頭を整理するためのものです。
俺自身がこの問題について考えるとき、常に答えはシンプルだ。俺はこの世界は弱肉強食で、強いものが勝つと思っている。強さの基準はいろいろあるんだけど、少なくとも暴力だけはかろうじて禁止されている。裏社会とかそんなんがあるのかはよくわからないけど、少なくともふつうにこの世界で生きていく場合、暴力だけは振るったら負けだ。それは問答無用で傷害罪なので、法律によって罰せられる。すると、たとえその人がどれだけ正しいことを言っていようとも、その時点で理屈は通らなくなる。
で、「勝ち」の条件なんだけど、これはその人が心底満足していれば、それで勝ちだと思う。その満足にわずかでも欺瞞があれば負けだ。人間はだいたい生活してるので、生活の基盤が危なくなればやっぱ満足できない。そして生活の基盤を維持していくためには金と力が必要だ。そのうえでなにが必要なんだ、となれば、やはり己の欲するところに正直であることだと思う。不快なことを躊躇なく否定できることだと思う。ただ、本当に自分の欲望の赴くままに生きると、社会の網の目の一点であるような人間にとっては、いろいろ不利なことが起こる。だから、適度に利害を計算することが必要になる。そうしたさまざまな要素を総合的に持ち合わせて、この世界で「弱者」の立場に陥らないことが、俺の場合「強さ」ということになる。
そして多くの場合において、その人の社会的立場を決するものは、一対一になったときの勝ち負けだと思う。ルールのはっきりしない勝負では、対峙する二人がそれぞれ「勝ち」「負け」と思ったときに勝負が決する。常に勝負を続けて「勝ち」と心の底から信じられるような状態を続ければ、人は決して負けない。そして「勝ち」に必要な条件とは、自分の正しさを確信できることだ。まあ無根拠に自信満々な人間もたまにはいるが、その手合いは最終的に多くの人間の賛同を得られない。本人だけが「勝ち」と思って孤立してるような状態は、最終的には試合放棄と一緒だ。
てなわけで、俺の理屈の基本は「この社会」を否定しない。「この社会」のなかで、自分と、自分が愛する少数のものさえ幸福ならあとのことはどうでもよい、という前提に立っている。別に愛せるのならば世界中の人間に僕の愛をお届け!とかでもかまわないんだが、それは無理だと判断した。また、そもそも幸福に生きていくにあたって、一定以上の広い人間関係はほとんど必要じゃないとも思う。非モテの議論のなかでよく「自己承認」という言葉を見かける。俺はこの言葉を「あなたがいてよかった」と言ってくれる人を持っている、ということだと解釈してるけど、そんな人間は確かに一人か、あるいは数人でもいれば充分だ。逆に自分が心の底からそう思える相手だって、そう多くは持てない。だとしたら、それ以上は不要なのだ。すでに自分が「持ってしまっている」のならば、それ以上は持つべきでないとすら思う。
以上のような考えを持つ人間は、基本的には自己責任論者だと思う。そして俺は自己責任論者としてはもっとも極端なほうだと自分で思う。なにせ「自分が関わることはすべて自分の責任」だと考えるわけだから。この考えの根底にあるのは「この世界は敵」という認識だ。なにしろ、生きていくためには努力しなければならない。黙って座っていてもだれもごはんを食べさせてくれない。俺にとっては「生きるために手の一本でも、指のひとつでも動かさなければならない」という時点で、この世界は「俺が生きていくにあたって不適切な世界」だということになる。俺にとっては「生きること=食うこと」に近い。自分が生存していることは、必ずほかのなにかを奪うということだ。食うことは直接的に他の生命を奪うことだし、利潤は常に窃取と同意だ。しかしそのことに罪悪感を覚える必要はない。むしろ、感じてはならない。なぜならば、それでも人は死にたくないからだ。現に生きている以上、人は死にたくないはずだ。なにしろ、死にたければ死ねばいいのだ。死ねばそれで終わり、は絶対の正論だ。それを選択しない以上、人は生きることを望んでいる。そしてそうである以上、その人はなにかを犠牲にすることを「引き受けている」はずなのだ。そんな世界が自分にとって「望ましい場所」でありうるはずがない。比喩的には、俺は多くの動物や人間の死骸を踏みにじって、この世界に立っている。逆にいえば、そうしなければ立っていることはできなかった、ということだ。こう考える人間が弱肉強食を標榜するのは必然だ。
そんなわけで、自分が関わることで他人が助けてくれることはありえない(原理的には、って話。ここでいう「助ける」っていうのは、その人が自分の利害を完全に捨てて、ただ「俺」のために奉仕してくれる、という意味合いになるから)。である以上、自分がどうにかするしかない。で、すべては「自分の責任」ということになる。もっとも、社会的存在としての俺が目的とすることは「死なないこと」がまず第一で、次に「負けないこと」なので、この目的から考えて特に果たすべきと感じないことは他人に押し付けてよい。んなわけで、俺にとってすべての人間関係は打算にしかならない。
そしてここから先が、おそらく俺が理屈で物事を語れない人間である最たる理由だと思うんだけど、そうはいっても人間は一人で生きていくことが難しい。まあ、打算だろうとなんだろうと、社会的存在である以上、一人で生きていけるはずないって話もあるんだけど、それとは違う意味で。
いままで書いてきた感じでは、俺は「人間は原罪を背負っている」と考えてるっぽい人なんだけど、そうではない。「生きていくことを選択した以上、原罪を背負っていると認識する甘えは許されない」というのがより正確だ。「おまえは奪ってでも生きる道を選択した。ならば、その血塗られた道を進むのがおまえの義務だ」とでも言ったらいいんだろうか。「おまえはまちがっている」と脅迫してくる世界に対して「いや俺は正しい」と常に反駁し続けるのが俺にとっての「生きる」ということだといえる。しかもそれは反論のための反論なんて生易しいものではあっという間に潰されることは目に見えてる。だから自分が心底それを信じていなければならない。そうでない正しさ、たとえば、他人に由来する正しさ、共依存みたいな偽りの承認なんてものでは実際「使い物にならない」のだ。「死ね」と言われたときに「いや、俺はこういう理由で生きている」と断言できるだけの、崖っぷち状況でもなお「使える」だけの正しさでなければならない。
しかしまー、そんなのはものすごくしんどいわけだ。ここのところはうまく説明できない。とにもかくにも一人きりであることはしんどいのだ。こういう文章書いてるときに絶対に使っちゃいけない言葉だと思うんだけど、「人間そんなもんだし」としか言えない。
しかしそうやってがんばってるうちには「あー、そうそう。自分もそういうのが正しいと思ってた」と言ってくれる人が現れる可能性がある。まあ現れないかもしれない。そのへんは運次第だが、少なくとも自分にとっての「正しさ」を共有できる人間を探す努力は絶対に必要だと思う。もっとも生きることを「引き受けている」人ってのは、否応なしに自分にとっての「正しさ」を撒き散らしながら生きてるようなもんだから、大して探すまでもなくお互いわかる可能性が高いんだけど。
人間関係のすべてが打算であると考える俺は、この「正しさ」を共有するというただ一点において、打算でない人間関係が成立すると信じている。自分はこうやって生きてきた。こうやって生きていくつもりだ。それを理解してもらえるということは(理解させるっつーことでもあるが)、そのまま「二人でこうやって生きていきましょう」につながる。一人で戦うことは孤独だが、理解者が一人いれば、それは全世界を手に入れたも同じだ。ただそれでも「人間は奪って生きる」という前提がなくなることはない。共闘者である以上、互いに奪い合っては話にならないわけで、その場にいる二人は、二人ともが前提として「世界から奪える」人間であることが必要だ。この言いかたに語弊があるならば「自分なりの正しさをもって世界と対峙できる」ことが必要だといってもいい。もっとも二人が出会うきっかけがそもそも「正しさの共有」であったわけだから、自分で言ってることなんかおかしいと思うよ俺。ただ、俺が考える「自己承認」というのは、このへんにある。「君がいてよかった」というのは、俺が考えるには「君の考えは正しい」と言ってもらえることとほぼ同義だ。
さて、非モテについて話してるはずが、俺はここまでまったく恋愛の話をしていない。これは、俺の目的が「死なない」というものすごく低いレベルに置かれているからだと思う。恋愛感情も性愛もひっくるめて俺にとっては二次的なものでしかない。まず人間は絶対的に「一人」の状態からスタートするのであって、そうして初めて別の「一人」と出会えると考える。そして「一人」でなく「二人」となって、そこからがようやく「生きやすくなる」。
ただ、長いあいだひとつの人間関係を続けていくためには性愛という要素があったほうが長続きしやすい、という程度の話だ。そして恋愛感情なんてものに至っては幻想でしかない。こうまで断言できるのは、俺が実際に恋愛感情というものを知らないせいもあるけど、世上によくいわれるように、もし恋愛感情がほとんど理不尽な力のようなものであるのだとしたら、そこに「正しさ」はいっさい関係がない。恋愛感情が永続することが可能で、それが日々人が生きている「この世界」と折り合いがつけられる性質のものならば話は別なんだけど、恋愛感情の本質は排他性にあるんじゃないかと思う。俺は恋愛の当事者であったことはないからよくわかんないんだけど、恋愛感情によって結びついた二人の人間が、正しさを共有して生涯のパートナーであることは可能性としてはそんなに高くない気がする。
ちなみに「生涯のパートナー」的な考えかたに固執するのは、一度共有された「正しさ」は、共有されている以上、今度はその二人のあいだで育まれるものなので、途中でパートナーを変えるのはしんどいんじゃねーか、と思うからです。
てなわけで、こういう場所から物事を見ている俺にとっては、非モテの人たちの理屈がまったくわからないものに思えるわけです。恋愛資本主義というものがあるのかないのか、ということはそもそも原理的に「関係ない」ことになってしまうし、実際俺にはそんなものは「見えない」。これは結婚した現在だから、ということではなく、一人だったころからそうだった。
ただ、furukatsuさんが言うところの暴力革命がアリだなーと思ったのは、暴力っていうのは問答無用で絶対の力だから。反対する人がいても殺しちゃえば終わりだし。暴力は最後は必ず殺人に到達する。ただ、殺されなかった人たちが幸福になれるのでなければ、たぶんなんの意味もない。暴力革命というのは、理屈では「恋愛を望む人は皆殺し」ということだと思う。俺のように性愛は人間にとって二次的なものでしかないと考える人間でも、理不尽な暴力のように襲いかかる「恋愛感情」というものを否定することはできない。恋愛感情を肯定し、恋愛関係を否定するのであれば、そこに必ず抑圧が発生する。抑圧は人を幸福にしない。あるいはその抑圧を上回る幸福の「モデル」が必要だと思う。俺は(あるいはナツさんも)「ヴィジョン」ということにこだわるのは、それがなければ革命にも説得力がなくなってしまうから。そして少なくとも俺は「俺は世界はこんなふうにできていると思う」という現状追認しかしない人間で、じゃあこの世界は現状あるがままでいいのか、という疑問に対しては必ずしも「イエス」と答えることかできない。だから「ヴィジョンを見せてほしい」とむしろ願うのだと思う。
実際に世界を動かそうとするならば、現実的な力が必要だ。そしてそこには強固な「正しさ」が必要だと思う。
ちなみに非モテ関連のテキストつーても、俺はfurukatsuさんのテキストくらいしか読んでない。そして、そもそも現状追認的であるか、現状打破的であるかという点において把握のしかたのフレームが違いすぎるんで、恋愛とかに関する言説に関しては、俺はfurukatsuさんの言うことが理解できないように「なっている」。これはほかのすべての非モテの人たちの言説についてもたぶん同様。否定的といえば根底から否定的だ。だが、行動を起こしたことだけは賞賛に値する。そして行動を起こすということは現実的な影響力を行使するということで、そこには正しさがあってほしい。そのほうがわくわくするじゃん、というのが俺の感想でした。
また思いついたらなにか書くかもしんないです。
2007/04/28 01:28 カテゴリー: MK2がなんか書いた | 個別ページ | コメント (0) | トラックバック (0)
本日まゆみさんは、MK2が運転する車の助手席に乗って、うちがある場所からは対岸にあたる房総半島に行って参りました。俺としては竹岡式ラーメンを食いたかったのですが、まゆみさんはラーメン屋の雰囲気が好きではなくあえなく却下。かわりに、長浦駅のそばにあるダイエーで惣菜買って、車のなかで食いました。
房総半島に行くにあたっては、東京湾フェリーを利用します。もともと乗り物酔いの激しいまゆみさんなのですが、内海を行く程度ならばさほど酔わないようです。ここで少しずつでも船に慣れておけば、来る将来、ヒマと金をもてあましたときに、長距離フェリーで豪華なクルージングができるだろうという寸法です。いや、別に豪華さとか興味ないんですけど。ちなみに俺は、長距離フェリーの醍醐味は、閑散期の二等船室の雑魚寝にあるとかたく信じています。鈍行列車も好きなんですが、やっぱ船だなあ。読みきれないほどの数の本を持ち込んでのんびりと船に乗るのはいいものです。
しかし途中で寄った木更津市の中心街空洞化っぷりはすごかったなあ。どこの地方都市でも多かれ少なかれいえることですけど。中心街から少し離れたバイパス沿いとかに、大型駐車場がある大型店舗がずらーっと並んでんのね。で、中心街にあるのは飲み屋と風俗ばっかっていう。この流れはそう簡単には変えられないだろうなあ。だって、実感としてそのほうが便利だもの。
2007/04/28 01:27 カテゴリー: MK2がなんか書いた | 個別ページ | コメント (0) | トラックバック (0)
昨日は本当は22時で仕事が終わりだったのですが、夜勤のおばちゃんが「子供が熱出した」とか言い出して急に休みということになり、結局俺が出勤になって
しまいました。正直子供の熱なんか知るか死んでしまえとか思ったんですが、というかおばちゃんが帰ったあとに口に出してそう言ってみたのですが、現場を高
校生の女の子に目撃されてしまい、なんだか化け物を見るような目で見られてしまったMK2ですこんにちわ。ふだん怒らない人なのでヤバいもんを見てしまっ
たという気がしたんでしょうか。
さて、そんなわけで、今日は22時に仕事が終わったあと、24時間営業のスーパーでも行って、なんかおいしいものを買ってきて家でのんびり食べようか、と
まゆみさんと約束をしていたのですが、その計画がだめになりました。マジ殺すあのおばちゃん。腹いせのように「じゃあ31日出れますよね。まさか出れない
なんて言えませんよね」と笑顔で言っておいたので、ひょっとしたら辞めてしまうかもしれません。
しかし挫けずに、6時に上がって24時間スーパーに結局行きました。
なにを食おうか迷っていたのですが、こういうときにまゆみさんに「なにか食べたいものがあるか」と質問すると「まぐろ!」「カキフライ!」くらいしか言わ
ないので、あまり参考になりません。かといって俺に同じ質問をすると「カレー」としか答えないので「どっちの解答が頭が悪いか」という競争をしたら、たぶ
ん俺が勝ちます。
しかしこの日はまゆみさんから「焼肉はどうだ」という有益な提案があったので、焼肉の材料を買うことにしました。というか、自炊というものが実質できない
夫婦である我々は、それくらいしか選択肢がないのです。つまり「なに食おうか」なんて相談するだけ無駄というわけです。ちなみに俺が自信をもって「作れ
る」と断言できるのはカレーだけです。本当にすいません。カレーばっかで。ちなみにまゆみさんはおでんが作れるのですが、仕上がるものが寸分違わずコンビ
ニのおでんと同じ味になるのはある意味驚愕です。なぜそんな高度で意味のない技を持っているかというと「コンビニでしかおでん作ったことがないから」だそ
うです。ねえ料理ってそういうものなの? 違うよね?
そんなわけで、豚バラとか買いました。なぜ豚バラかと申しますと豚バラはおいしいからです。ちなみに我々における焼肉とは、当然ながら我々の好きな材料し
か入りません。まゆみさんは野菜を食いません。「少しは食べたほうが」とか忠告すると「私はうさぎじゃない」という返答がかえってきます。この世界に野菜
を食べるいきものはうさぎだけだと言わんばかりです。馬だって食うじゃんにんじんとか! あと実は人間も野菜食べる人が多いと思うんだけど、そのへんどう
なんですか、まゆみさん。
結果としてまゆみさんは、焼肉は「肉」を食うものだと信じ込んでいます。あとはまゆみさんの好きなものが乗ります。冷凍のハッシュドポテトと冷凍コーンで
す。あともやしはまゆみさんがけっこう好きなので、それも仲間入りします。つまり、豚バラ、もやし、そしてハッシュドポテト、コーン、です。通常の「焼
肉」の概念に対してかなり挑戦的なものを作っている気はするのですが、まあいいです。あとまゆみさん、まぐろが好きなのはわかりますが、まぐろは焼肉の
ホットプレートに同居するものではありません。いくらまぐろとホットプレートの位置関係が近かったからって、そこにアナーキーな野合が生じていいというも
のでもありません。そしてホットプレートで焼いたまぐろはおいしくなかったそうです。
こうして我々は午前8時から焼肉を食ったわけです。しかし以前からその傾向はありましたけど、豚肉高いですねー、最近。豚バラグラム166円とかなめてん
だろおまえ。なにが国産の豚肉は安心だ。まとめ買いはお買い得!だ。おまえ庶民の味方やめたのか。豚バラ……なあ! 悲しいよ俺。
ところで、うさぎは肉を焼くにおいが嫌いらしく、居間に住んでいるちびすけ(うさぎ。メス。1歳くらい)は、焼肉を始めると、小屋の隅っこに頭をうずめて
しまいます。まゆみさんはその状態のうさぎのことを「現実を拒絶している」と表現します。うさぎに拒絶すべき現実があるのか、そして逃避した現実からあら
たに目指すべき幻想の地平線があるのかどうか俺にはわかりません。
食い終わったあと、俺は絶望的に満腹になりましたが、まゆみさんは「腹8.5分目」くらいだそうです。まゆみさんは女性としてはありえないくらいに食いま
す。それでほとんど太っているといえない体型だというのはなにかがおかしい。これは俺の実家の人々にもいえます。もっともあの人たちは「うまいものを食う
ためなら1回吐いてでも食う」というローマ貴族も真っ青の食い物への執着を示す人種なのであまり参考になりませんが。あの人たちは「本当においしいもの」
を食べるためならたぶん人を殺すことすらためらわないと思う。本当にあの人たちと血がつながっているという事実を粉々に粉砕したい。シンガポールに行って
きたっていうからなにしてきたかと思ったら、
「うまいもの食ってきた」
「マーライオンは?」
「食えないから関係ない」
「そういう問題じゃないでしょう……」
「あんた頭おかしいよ。食えないものになんの意味があるっていうんだ」
こんな60歳の母親をもった俺は不幸です。食えないもの以外に価値見出したら頭おかしいの? ねえ意味わかんないよ!
まゆみさんに限っていえば、太らない理由は明確で「太るような食いかたを絶対にしない」ことに尽きていると思います。ちなみに俺は鯨飲馬食するので太りま
した。人はそれを幸せ太りと解釈するようですが、違います。単に食ってるんです。幸福でも不幸でも俺は食うのです。たぶんそのへんの事情はまゆみさんも一
緒だと思います。「アレルゲンが入っているとわかっていても食う」と聞いたとき、俺は、自分が大変な大人物と対面しているのだということを疑いませんでし
た。でもまゆみさん、野菜はアレルゲン入ってないことが多いと思うよ俺は。あらかじめいっておくけど、じゃがいもは野菜じゃないからね。
まあそんな感じです。あとは今日は部屋の大掃除をしました。俺の部屋は本当に足の踏み場がありません。だから、ものを踏まないと入れません。で、掃除して
みて驚いたんですが、俺の部屋に堆積していたものは、本とゴミと服だけでした。それ以外のものはなにもなかった。堆積していたものどものなかから「ハヤテ
のごとく」の7巻が出てきましたが、読んでみてびっくりしました。ほとんど記憶してません。
自分の部屋に入るとき、ルーティングを考えなくていいのは快適です。もう三点支持法とか活用しなくていいのです。どんな部屋だ。
2007/04/28 01:27 カテゴリー: MK2がなんか書いた | 個別ページ | コメント (0) | トラックバック (0)
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